第55話 古の巫女
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冷気をはらんだ春の夜が更ける。
悲壮を嘆く血色に染まる月。
修羅の時は刻々と過ぎてゆく。
東から昇った真円は今、天に向かって咆哮を上げる大岩の頭上を越えて西へと傾きつつあった。
数日前に満開になった桃の花も、眼前で繰り広げられる死闘に怯えるばかりで春を謳う気配はもうない。倒され傷ついても立ち上がり不屈を浮かべる子供らを、心を痛めるばかりに見つめる桃の花は、いつしか揃って歎きはじめ一斉にその花弁を悲涙のようにして散らしていった。
戦場となった氷狼神社には
粛としてこちらを凝視してくる野孤。
その異様な気配と生まれて初めて見る大群を見て樹は気後れをする。
それでも、いざその敵と対峙をしてみれば敵の力は然程のこともなかった。それは先に戦った紫色の一口鬼にまるで及ばず、歯ごたえという程のこともない。実際に太刀を交えてみれば、案外軽いものだというのが樹の率直な感想であった。
だがこの時も、問題はその数の多さだった。手数で押される上に遠距離から矢が放たれれば気を抜く暇もなかった。
戦況は、方々に気勢を上げて向かってくる野孤の群れがあり、その大半を上狛の陰陽師達が粛々と片付けていくといった具合であった。
戦いに不慣れな樹達は、気概こそ見せていたが浮き足立ってしまい無様を見せていた。手傷こそ負わなかったが、連携という意味では思うように動けてはいなかった。
切り裂くような斬撃が正面から降ってきた。それを樹は雑作も無く最小限度の動きで捌き、無駄なく太刀を相手に叩きつける。続けて浴びせられる五匹同時の連続攻撃も難なく切り返し敵を刻んだ。
樹の攻撃が相手に届く時、太刀はもはや息吹も上げない。ただ静かに、ただ滑らかに刃に狂気さえ浮かばせず、樹は野孤の群れの中で優美な剣舞を舞った。
意識は鋭く集中し凪いだ心のままに敵を滅していく。樹は次の十匹も軽々と滅ぼしてしまった。
目の前にざっと集まった群れを片付け一つ息をついた。樹の耳が犬童澪の声を捉える。樹は声のする方に視線を向けた。そこで朱鬼と対峙するシロの方へと歩みを向ける老婆の姿に目を留める。
「久しいな、犬童」
「朱鬼よ、お主も懲りぬやつじゃのう」
短く声を掛け合って、お互いがニヤと笑みを浮かべた。
「しかし犬童よ、その姿はどうした。どういう仕組みかは分からぬが、再び現世に姿を現したというのに、そのような皺まみれの婆様のなりとはのう」
「ほほほ、千二百年も経てば、世辞も上手くなるようじゃのう、朱鬼よ」
「いやなに、わしもあの時、一時はお主と供の者に滅ぼされかけた身であるゆえにの、敬ってちと上手も言わねばと思うての」
朱鬼は戯れた目つきで揶揄をくれた。
「――あの時……」
老婆が細く呟く。澪は朱鬼の揶揄する言葉に反論することをしなかった。それどころか澪は何故か戸惑いを見せ怪訝の色を瞳に浮かべていた。
朱鬼はそんな彼女の僅かな顔色の変化を見逃さなかった。
「如何した犬童よ、昔々の話故に忘れてしもうたかの? それとも年経て呆けてしもうたか、ならば実に哀れ」
「そうかもしれぬのう……年は取りたくないものじゃ、じゃが昔は昔。今宵こそは完全にお前の息の根を止めて差し上げよう」
「フン。やれるのか、その婆様のようななりで力が使えるのか?
「さてそれはどうであろうのう。ひとつ試してみるか?」
皺まみれの顔が悪戯に笑う。澪の瞳に鋭い光が浮かんだ。
間髪を入れず朱鬼の手から炎の蛇が飛び出した。しかし澪は事も無げにその炎を吹雪で消し去った。
「うむ、どうやら力は変わらぬようであるのう」
いって朱鬼がニヤと笑う。朱鬼は手に緋色の太刀を現した。その太刀を見て澪が目を細める。
「その太刀……やはりお前が持っておったのか……」
老婆の言葉を聞いた朱鬼は、おやと小首をかしげるが、次に己が手に持つ太刀を自慢げに見せつけ澪に言った。
「何を今更そのようなことを。別に珍しがることもあるまい。あの山城の一戦でも、最後に戦った時にも見ておるではないか」
「……」
「おお、こいつは面白い。お前、本当にあの犬童澪なのか? その顔、まるで事情も知らぬといった具合ではないか、どうした。本当に阿呆になってしまったのか」
「……」
この時もまた、朱鬼が語ることに答えることもなく澪は沈黙していた。その顔に迷いのようなものが見てとれた。事情を話していた時とは全く違う様子がどこか腑に落ちなかった。
――あの人は全ての事情を知っているのではないのか?
些細な違和感が樹の心に疑問を抱かせる。犬童澪とは何者であるのか。
澪は、顔見知りのように敵と会話をしているが、朱鬼は千三百年の年を経る化け物だ。現世に生きる人間が古の化け物と旧知であるはずがない。
――まさか、あの人も千二百年前からずっと生きてきたということなのか……。
その容姿は確かに歳を経たものではあるが、そもそも人は千二百年もの長き時を生きることなど出来ない。ならば生まれ変わりということなのだろうか。
犬童澪は記録を知る人物ではなく、現世に再誕した人物なのかもしれない。だが、それならば何故……。
断続的に野孤との戦闘は続いていたが樹は疑義に囚われていた。
どうしても犬童澪の存在が気になってしまい戦いに集中出来なくなっていた。
そんな時だった。樹の目は朱鬼の後ろに見知った人物の姿を捉える。
「――な! なんだ! い、岩――」
岩井は瞬間的にその場に湧いて出たようであった。気配にさえ全く気付くことが出来なかった。だから慌ててしまい咄嗟に名を呼んでしまいそうになった。
岩井は樹と目を合わせると、そっと口元に人差し指を当てて静かにしろと目配せをしてきた。樹は押し黙り、岩井と朱鬼と犬童澪、間近に接する三人の様子を訝しんで見つめた。
何とも奇妙な光景であった。岩井は朱鬼の真後ろに立っていた。澪にいたっては目の前に見えているはずである。
――これはどういうとか。朱鬼と犬童澪には見えていないのか。何故、気が付かないのか……。
そうしているうちに岩井が動いた。直後に朱鬼がハッとして両手を見る。
辺りを見回し何かを探す鬼。朱鬼の慌てる仕草に沈黙していた澪も我に返る。
「なんじゃ! いったい何が、刀は! わしの刀はどこじゃ!」
朱鬼が狼狽をみせながら声を上げた。
「へへへ、ここじゃよー、朱鬼」
造作も無く朱鬼の手から刀を取り上げ岩井が笑う。朱鬼と澪が同時に声のする方に顔を向けた。
「お前は、岩井! しかしこれは。お前、どこから現れよったのじゃ!」
朱鬼は混乱していた。
「どこからと聞かれてものう……」
惚けた声を発した岩井は、朱鬼から奪った刀をブラブラさせながら嬉しそうにニタリと笑った。
「むむむむ、人間風情が――」
「人間風情? そうではないぞ朱鬼、お主、わしに言っておったではないか、『お前も鬼だ』とな」
岩井は刀を肩に担ぎ嘲るように朱鬼を見下した。
「おのれ、舐めた口を利くではないか! もう生かしてはおけぬ」
「ほう、生かしておけぬと、それで? それでどうする朱鬼よ、またこの身体を操ってみせるか?」
岩井は更に小馬鹿にするように小躍りを見せて朱鬼を挑発した。
猛火が走る。岩井の言葉が終わらぬうちに朱鬼が炎を放っていた。
「危ない! 岩井さん!」
咄嗟に危機を告げた。その樹に向かって岩井が不敵に笑う。
予想だにしない動きを見る。岩井は手にした刀を風車のようにクルリと回して朱鬼の放った炎を易々と消し去ってしまった。
「――うぬぬぬ、このように誑かされるとはな。よもやお前が、これほどの力を見せる者であったとは、見誤っておった」
地団駄を踏んで悔しがる朱鬼。岩井は、そんな鬼の様子を気にも留めず悠々と澪のもとに進んだ。
「澪様、この度は直々の参戦、痛み入ります。遅れ馳せながら私もこうして推参致しました」
岩井が澪の前で深々と頭を下げる。澪はというとまるで狸に化かされようにポカンと口を開けたまま固まってしまっていた。
「澪様……。れーいーさーまっ!」
腰を折り老婆の耳元に口を寄せて岩井が名前を呼んだ。
呼びかける大きな声に驚いて澪はビクリと身体を震わせる。彼女は瞬きを繰り返した後、首を小刻みに振った。
「お、おお! これはご丁寧に。そなたはたしか……そう、確か岩井とか申しておったの」
取り直して言葉を探す澪。
「――んんん? 澪様?」
小首を傾げる岩井。
「お、おお、なんじゃ岩井殿」
「澪様?」
「はて、なんですかいの?」
「……澪様ぁ」
互いに数度呼び合ったあと、岩井はガクリと肩を落としてしょげた。
中年男の寂しげな眼差しを見る。岩井のその姿は、自分の事を忘れてしまっている祖母に思い出せと呼び掛けている孫の姿に見えた。
不思議だったのは、このやり取りを見ていたシロが呆れた様子で岩井を見ていたことである。樹にはこの二人と一匹が互いに知り合っているように見えていた。
「――ん……。まぁいいか……この様な事をしている場合でもないしの。さて澪様」
落胆する岩井は、どうしたのもかと思案するが直ぐに切り替えて話を始めた。
「なんじゃ、岩井殿」
「おっと、その前に。次郎殿、儂は澪様と少々込み入った話をせねばならぬ。しばらく朱鬼の相手を頼むわ」
軽い調子で犬にお願いする岩井。この男はいったい何者であるのか。姿は確かに岩井なのだが。
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