第22話 刮目する者

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 天空に浮かぶ銀の満月が、いつの間にかその色を赤く染め上げていた。

 奇怪を仄めかす赤月。

 上狛水音率いる上狛五神官が、月影の下で固唾を飲んで下の社を見つめる。


「皆、そう固くならなくても大丈夫です。れい様が出来ると仰ったのですから、今は彼らを信じて見守りましょう」


 水音は落ち着いているようだが、皐月にはどうしても事が上手く運ぶとは思えなかった。

 皐月は疑念を抱いている。いや、これは違和感といったほうがよいのだろうか。

 何かを見落としている。何かが違うと心のどこかに釈然としない思いがあった。


 初手からしくじった。しかも最悪の形で。

 皐月は犬童澪の策を慮った。

 そもそも、何を持って勝ちとするのか。口火となるこの初戦においても、策を弄するその先の到達地点が定かではない。皐月には見えない。


 負けを見せることで敵を欺くと言っていたのだが……。

 この策は、見ようによっては結果良しといえる。当初から負けることが目的であった。ならば、負けの結果は是となる。しかしこれで良かったのだろうか。


 胸中で出した結論は否であった。

 結果の是非はともかく、その策は神無月の裏切りによりいとも容易く破綻している。残された事実のみが是であるだけだった。


 それでは、今回の目的は人に仇なす鬼、一口鬼ひとくちおにの討伐に重きがあるのか。


 考えるまでもなく否である。出没した一口鬼がたとえ三紫の翁であろうとも、上狛の陰陽師が揃えば討伐することは雑作もない。討伐が目的ならば、わざわざ素人同然の者達を素質があるからといって戦わせるような面倒なやり方などせずともよい。


 あの子らを実戦の中で試しているのだろうか。

 これもまた否である。選び抜かれた自分達でさえ、幼少の頃から厳しい修行を経てようやくその技を身につけることが出来たくらいだ。魑魅魍魎の調伏は易くはない。

 伝説を継ぐ者、破格の力を秘める者であるといっても、彼等には敵に対する知識も経験もない。何も教えられていない者にはこの戦いは荷が重すぎる。

 それに、神薙達は上狛の陰陽師がこれから付き従うべき者達である。彼等は鬼との戦いにおいては最重要な存在であり、万が一にも失ってはいけない者達である。

 そんな彼らをわざわざ危険な目に合わせる意味が分からない。


 見えない。この戦いの先にあるものは何だ? 

 ここで皐月は、最大の疑問に思い至った。


 ――鬼姫を覚醒させたことも計算の内なのだろうか……。


 皐月は、大きく首を振った。このことだけはどう考えてもあり得ないと断言できた。

 力を覚醒させたことにより鬼姫を討伐することの難易度は跳ね上がった。

 これは怠惰であると言わざるを得ない。馬鹿げたことだ。最強の鬼を目覚めさせることでこちらが得をすることなど微塵もないのだから。

 おかしなことはまだある。そもそも、鬼姫には水音が張りついていたはずである。

 その目的は、鬼姫の監視と覚醒の阻害であったはずなのだが……。

 水音ならば、鬼姫覚醒という最悪の事態を招くような失態は行わないはずである。

 それでは何故……。水音の行動にはおかしなところがある。わざわざ鬼灯ほおずきるいを覚醒さる為に放置していたようにも見えるくらいだった。

 何故こうなった……。そもそも鬼姫とは何だ。こちらはずっと鬼姫を監視下に置いていたのだ。始末する機会などいくらでもあった。覚醒させる前に殺してしまえば事は容易く済んでいたのに。

  いくら考えを巡らせてみても、皐月には答えが見いだせなかった


 ――ダメだな、つまらぬことを考えるな。これは邪念だ。私は澪様と水音様に従うだけだ。


 疑念を雑念として振り払い水音の方を見る。


「……えっ?」


 赤い月を背にした水音の髪がライトブルーの輝きを見せながら風にそよいでいた。

 それは僅かの出来事であった。瞬きする間に水音の姿は元に戻っていた。

 神獣と対峙したときにも、あの青い髪は見ているのだが……。

 皐月は、自身の状態が幻を目にするほど不安定になっているのかと落胆した。


「心配ごとですか? 皐月」

「あ、い、いえ、そのような事は何も」

 慌てて動揺を隠した。しかし抱く不安を見透かされた気がした。


「どうかしましたか? 皐月」

「い、いえ、何でもありません……」

「そうですか」言って水音は悪戯な笑みを浮かべながら言葉を続けた。「来ましたよ、皐月。さてと、あの子達はこの試練をどう乗り越えるのでしょうね」


 淡々と話す水音。試練だと簡単に言ってしまえるその胆力には敬服すべきなのだろうがしかし……。神薙達に訪れた危機を前に、どこか焦燥感を拭いきれていない皐月は心を定めることが出来なくなっていた。


「あ、あの……ほんとうに、神薙様は大丈夫なのでしょうか?」

「正直なところ、それは私にも分からないわ」

「え?」

「ふふふ、冗談よ、ご安心なさい。これは少し不確定要素が多いと言うだけの話よ」

「は、はぁ……」

「あたなにも色々と思うところがあるようね。まぁ何も聞かされないままに仕事をさせられればそれも仕方のない事よね。でもそれも、この初戦が終われば全て解消するわ。だからもう少しお待ちなさい」


 主命は、決して手出しをせず姿も見せずに見守れという事である。

 水音は言う、この戦いが終われば、抱く疑問も全て解消されると。

 皐月は、迷い心を封じて眼下の様子に意識を集中させた。


 ****


 怪奇を見せる稽古場の中で、岩井いわい悟志さとしの頭の中は混乱していた。

 自身の経験と知識を総動員し、あれは何だと問うてみても、突如目の前に現れた化け物を上手く認識する事が出来なかった。岩井は答えを見つけ出す事が出来ない。


 どんなに忙しくても日頃から鍛錬を怠ることのない彼は、いつ如何なる時でも現場で緊張を解くことは無く、不時の出来事にも反射的に動くことが出来る自負があった。しかし……。女子高生に身体を突き飛ばされたあの時、事前に蘭子の様子がおかしいことに気付いていながら彼女の動きに反応することが出来なかった。

 蘭子に救われなければ死んでいただろうという事実に対しても、狙われた理由すら分からない岩井には現実的にそのことを受け入れることが出来なかった。


 ――たまたま自分がそこに居合わせただけなのか? あれはただの巻き添えなのか?


 いくら状況を反芻してみてもそんなことしか思い浮かばなかった。

 岩井が目にしていたもの。見たこともない、想像したこともない忌避する現実。


 どんな凶悪犯にも死生観はある。人の命を軽んじるテロリストでさえ人を殺しているという認識はあるものだ。しかし目の前に現れた化け物はどうだ?

 姿形は人のようにも見えるが……。

 奴らは、まるで人を人として見ていなかった。

 在り様を例えて言うならば獣のようである。人の形に似た獣のようである。だが、確かに奴らは人でも獣でもなかった。……それではあれは何だ? 


 人語を話し知性も持っているように思える得体の知れぬ者。

 とりあえずは人間の年寄りとして見ても、肌色は紫でしかも口が裂けている。

 眼窩に窪んだ眼は明らかに人のそれとは違い、その目を見た瞬間に体が硬直して動けなくなってしまった。


 ――あれは何だ!


 岩井は何度も問い返す。

 直観としての印象をいうのならば、あれは人命というものを全く意識の外に置いているモノであり、その存在そのものが人とは根本的に違っているということである。

 岩井は拒んだ。断固として拒否した。

 岩井は刑事である。普段から相手にする凶悪な者も人である。つまりは人間という範疇の中でしか物事を見ていないし、見てはいけない。


 ――しかし、あれは人ではない。


 リアリストである岩井の思考が辿り着いた結論は、結局のところ直視しているあの者が人外の者であるということだった。

 それでも刑事としての本性が、目が見ている全てを否定しようとする。

 岩井は、どうにかして現実感を取り戻そうと試みた。しかし、その為に動くことも、言葉を口にすることも出来なかった。

 岩井は命の危機と恐怖を感じながら焦りだけを募らせていった。


「――わいさん! 岩井さん! しっかりして下さい! 岩井さん!」


 名前を呼ぶ大きな声と共に風圧のようなものを感じて、岩井は体を縛るものからの解放を感じた。


「岩井さん! 大丈夫ですか! 動けますか!」


 樹の声だった。


「――あ、ああ! 大丈夫だ!」

「よかった! お願いがあります。父さん達をここから避難させてください!」


 樹の言葉の意味を理解するのに数秒かかった。舞台の方に目をやると、数名の大人が倒れているのが見えた。誰が倒れているのかを確認しようとすると。


「くそっ! これはなんだ! やけに頭が重い」


 岩井の思考は鈍く、体は岩のように重かった。

 いったい何だというのだ。岩井は思うようにならない身体に苛立ちを募らせた。

 首を強く振り、自分で頬を叩く。もはや気合いと根性という言葉しか浮かんでこない状態だった。

 辺りを見回すと、立っていられたのは、加茂玄真、加茂康則、そして猿楽十和子と白雉恵子の四人だと分かった。


「動けているのは、それぞれの神社の……血筋の者達ということになるのか……」

 意図せず呟いてしまう。

 岩井の思考は、そこでまた奇怪な御伽噺の方へと引きずられていってしまう。

 岩井はそれを大きく息を吐くことで振り払う。そうして救命のためという現実的な行動をする為に急いで大人達の元へと向かった。


「みなさんは大丈夫なのですか!」

「え、ええ、私達はなんともありません」


 問いかけには答えていたが、その康則自身が問われた事の真意には気付いていないようだった。


「岩井さん、あれは、やはり鬼、なのでしょうか? その、本物の……」

「さて、それは僕の口からはなんとも。しかし、我々に命の危機が迫っていることだけは確かなようです」

「ならば、樹達、子供達の言っていたことは本当のことだったと……子供達が我々に見せたものも手品などではなく……本物……伝承も、唯も、何もかも……」


 どこか上の空で言葉を吐く康則。どうやら立て続けに目の前に起こった出来事について行けず混乱しているようであった。


「加茂さん! しっかりして下さい! いいですか、まずは、まずは……」


 岩井は言葉に詰まった。とりあえずとして親達の元に駆け寄ったが、その後どうすれば良いのかを失念していた。呆れるようにして天井を見上げる。

 何をすれば良いのか。市民の生命を守るべき警察官である自分に、今何が出来るのか。岩井には不可思議な状況を踏まえてこの後どう動けばよいのか判断が出来なかった。


「くそっ!」

 どうしたものかと考えながら子供達の方を見ると、あの紫の化け物と対峙する子供達の背中が見えた。


「やばいな。つい樹君の言葉に従ってしまっていたけど、これじゃ子供達が一番危ないじゃないか」


 考えるまでもなくこれはおかしなことだった。

 逃げろと声が掛かり、思わずその通りに行動してしまっていたが、その行為は大人が先に逃げ、弱い立場の子供を置き去りにしてしまうことであった。

 岩井は戸惑ってしまった。そこへまた声が掛かる。


「岩井さん、大丈夫です。ここは僕達でなんとかします。だから父さん達と逃げて下さい。出来るだけ遠くに、ここから離れた場所へ逃げて下さい」


「大丈夫って言ったって、こんなものどうするっていうんだ……」

 岩井の耳は空しい独り言を聞いていた。

「岩井さん」

 掛けられる康則の声にハッとして顔を見る。康則も何かを考えているようだった。

 そこで岩井は、子供達の方こそ優先的に逃がさなければならないとの思いに至る。

 岩井は、樹の方を向いて呼びかけようとした。だが、そこで更に驚くべき光景を目にした。


「なんだこれ、なんなんだこれは! くそっ! こんなことって」


 驚愕を口にする。岩井の目は、人間離れする速さで動く蘭子の動きを追えなかった。

 蘭子の動きを目の当たりにして、己の無力に落胆し悔しさを募らせる岩井。それでも束の間に思考を切り替え割り切ることを決意した。


「加茂さん、ここはひとまず樹君の指示に従いましょう。動けない男の人は私達が、そして奥様は、そこの猿楽さんと白雉さんとで運びましょう」

「しかし、子供達が」


 加茂康則は子供達を置き去りにすることを受け入れられないようであった。


「しっかりして下さい! 御子息は大丈夫だと言っています。それにこんな事は言いたくはないが、あれは私達が踏み込める領域のものではない」

「し、しかし!」

「分かりました。加茂さん。ではこうしましょう、我々だけでもここに戻ることにしましょう。ですが、ここに戻ってくるにしてもまずは動けなくなった者を避難させる方を優先させましょう。彼らに託された事すら出来ないでは、僕らも大人だ世迷い言だなどと言っていられないですからね」


 岩井は、康則を落ち着かせようと笑顔を作ってみせた。


「……分かりました」

「では、いいですか。とりあえず樹君の言ったとおりにここから離れます。そしてその後で、なんとか樹君達を救う手立てを」


 岩井は再び言葉を詰まらせてしまった。言葉尻に「手立て」とは言ったももの、それが本当に出来ることなのかどうかが分からなかった。

 警察を動かす為の真っ当な理由がここにはない。

 仮に偽って救援を要請し、屈強な警察官を何人か集めてみても、あんな化け物に対して普通の人間に何が出来るのかといえばそれも分からなかった。

 岩井でさえ動くことも声を出すことも出来なかったのだ。現実的に考えて、あれに対抗できる手段を普通の人間が持ちあわせていないことは事態に直面した岩井にはもう理解できる事となっていた。


 忸怩たる思いを抱く。やるせなさを痛感していた。それでも、岩井は樹の指示に従った。今やるべきは倒れ込んでいる大人達の避難と、恐らくこの場所に留まっていては足手まといになるであろう大人達の移動が最優先事項だと判断したからだ。

 必ず戻る。必ず助けに行く。心の中で強く思いながら、岩井は大人達を連れて稽古場を後にした。

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