第36話 加茂玄眞

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 和男が再び車を走らそうとした時、後ろでクラクションが鳴った。

 後方からやって来た車が鳴らすその音が激闘を重ねてきた優佳の心を日常へと引き戻した。妖の気配がない事を確認して和男が車を止める。

 クラクションを鳴らしてきた車が自分達の車のすぐ前に停車してハザードランプを点灯させた。

 車から出てきた男は白紋しろもんが入った白袴しろばかまをはき黒袍くろほうを纏っていた。


玄眞げんしん様!」


 見知った者の姿を見て、優佳は張り詰めていた気持ちを緩めた。


「――玄眞? ……陰陽五家の総領のことか?」


 上狛の者は陰陽五家との接触を避けていたので和男も加茂玄眞は初見である。

 和男の顔にはまだ緊張が残っていた。上狛筆頭陰陽師は陰陽五家の総領に対して油断なく警戒も解いていないようだ。


「ええそうです。あの方は桃花の祖父である加茂玄眞様です」

「桃花……桃花様の祖父、加茂玄眞」


 優佳が発する安堵の声。桃花という響きを聞き復唱すると、和男がもう一度、念を押すようにして優佳の顔を見てきた。

 優佳は大丈夫という意を込めて頷いた。その表情を見てようやくそこで和男も肩の力を抜いた。


 白い息を吐きながら急ぎ足で加茂玄眞が近づいてきた。


「これは尋常ではございませんね。何かあったのですか」

「あ、ああいえ、ちょっとしたことでして……」


 適当に誤魔化そうとしたのだが見た目に無理がある。一般人である玄眞に自分達の置かれた現状を上手く説明することが出来ずに言葉に詰まってしまった。


「そ、それよりも、玄眞様はどうしてここに?」


 聞かれた玄眞は、おおと言ってから頭を一つ叩いてお道化ると、急いで自分が乗ってきた車に戻った。

 玄眞は後部座席のドアを開きそこからなにやら包みを取り出した。そうして再び優佳たちの元に戻ってくると嬉しそうに声を上ずらせて手にした荷物を差し出した。


「ほらこれです」

「それは?」


 玄眞が両手に抱える程の荷物は綺麗な風呂敷で包まれていた。


「いやなに、皆がこれを優佳さんに渡すのを忘れたといって騒いでおったものですからね」

「そんな、玄眞様自らそのような事をなさらずとも……」

「いやいや、娘さん達は何やら歓談が尽きぬようで、主役の康則もお客との酒席を離れるわけにもいかずといった具合でしてね。まぁそれなら私がということでこうして参ったわけです。ハッハッハッハ」

「申し訳ありません。お手を煩わせてしまいました」


 恐縮して頭を下げ礼を言うと、ポカンとして車内を見つめる玄眞の顔がある。


「なんのなんの。それよりも、そちらのお嬢さんは、確か……歌舞を見に来ておった可愛らしい舞姫様ではございませんか?」

「あ、はい」

「どこか具合が悪そうに見えますが……」

「あ、ああ、ええまあ」


 優佳が答えると、玄眞は少し考えてから良い事を思いついたと破顔を見せる。


「うむ、この車で移動するのは、幼子にはちと辛いのではないですか?」


 玄眞は呆れるように指をさし笑いながら穴の開いた天井をみた。


「優佳さん、どうですか、ついでと言っては何ですが、真中までお送りいたしましょうか?」

「い、いえ、真中はもう直ぐ近くですから……」


 直ぐにそんなことは出来ませんと答えたが玄眞の方も押しが強く、ここは自分の出番だといわぬばかりで言う事を聞かない。暫くそんなふうに押し問答を続けていたのだが、戸惑っていた優佳に和男が声をかけた。


「優佳ちゃん、どうだろうここはこの方の申し出を受けてお送りしてもらえば」

「で、でも……」

「この寒空だ、子供に吹きさらしはきつい。それにうちの子も少し具合がよくないようだ」

「お父さんのいうとおりですよ、たとえ短い間でも暖かい車の方がよいでしょう。あなたの車は私が運転します。皆さんは私の車で行ってください。キーはこちらです。ささ、急ぎましょう。こちらへ、そちらのお嬢さんはお父さんが。ではどうぞ」


 車の鍵を渡された和男が水音を抱き玄眞の車へと向かう。


「ささ、どうぞこちらへ」


 玄眞が後部のドアを開いて手招きをした。


「ごめんよ水音、無理をさせたね……」


 水音を後部座席のシートに座らせると和男は過度の疲労によって深く眠る水音の額を撫でた。

 上狛の陰陽師の中でも頂を極める極月ごくげつが人に戻り優しい眼差しを娘に向ける。

 それは厳しい定めを背負った親子が普通の親子に戻った瞬間であった。

 しかしその僅かの平穏な親子の時を玄眞が破る。


「――ゴフッ!」

「あ、あなた!」


 和男は口から大量の血を吐き出した。

 見ると和男の背中に玄眞の手がめり込んでいる。

 混乱が優佳を襲った。

 これでもう大丈夫だと安堵していた心が、まさかというその光景を受けとめようとしなかった。


「グググ……な、なんだ……どういう、こと、だ……」


 突然の事に混乱する和男が鮮血で汚れた口を閉じ、歯を食いしばって気力を取り戻そうとしているのが見えた。その様子を見て加茂玄眞が大声で笑う。


「ハッハッハッハ! 見知った者であるとして油断するとはな。陰陽師、あれ程の力を見せたお前らしくもないな」

「か、加茂、玄眞ではないのか、な、何者だ……」

「ほほ、聞いてどうする? もう直に死ぬのだぞ」

「くそっ……」

「ほほ、悔しいか? そうであろうのう、それは悔しかろう。油断した自分の愚かさを思い知ればさぞかし無念もあろう。直にお前は死ぬ。そしてお前が死んだその後、残された者はどうなるであろうな……さぞ恐ろしかろうのう。しかしどうじゃ、わしにも情けはあるぞ、悪あがきでもしてみるか? 陰陽師。このまま少しばかり待ってやっても良いぞ、ほれ」


 和男が我が身を貫いている腕を掴んで引き抜こうとするが、玄眞の腕はビクとも動かなかった。


「おのれ! 鬼!」

 すかさず千佳が玄眞に向かって飛び出した。

 その千佳を玄眞は横目で見ると、腕を和男に突き刺したままその身体を盾のようにして千佳に向けた。


「どうした。攻撃してこんのか? 今なら亭主もろともでわしに一撃を当てられるやもしれぬぞ。クククク」

「ううう……」

「せ、千佳」

「さてと、もう良いかの陰陽師、では逝け」


 玄眞は和男の体の中を弄ると心臓を捉えて掴み出した。


「ッガ……せ、千佳……水音……」


 和男が崩れ落ちた。


「義兄様!」

「ほう、血筋であるか、やはりお前も陰陽師であったか。考えてもみればまぁそれもそうよな。千二百六十年もの間、男児ばかりが生まれておった真中に、ある日突然の女児誕生とはやはりそういうわけがあったか。なるほどのう真中に新たな陰陽の血が入ったことで……クククク、面白いのう」


 顎に手を当て思案した玄眞はニヤリとしたり顔を見せて悦に入った。


 ――水音は言っていた。氷狼神社には唯を見ていた鬼がいたと。その者は殻を被っていたと……。しかし、その殻を被った鬼というのがまさか桃花の祖父加茂玄眞の事だったとは思いも寄らぬ事であった。加茂玄眞とて陰陽師の血筋の者である。しかも桃花の血筋である。こんなことはあり得ない。桃花の血筋の肉体に入り込める鬼の存在など聞いたこともない。朱鬼とはそれ程の者なのか、鬼の首領とは聞いていたが……。



「…………」

「ささ、もうよかろう、姫を渡してもらうぞ」

「よもや、加茂玄眞様が朱鬼とは……」

「ほほう、我の正体、我の名を知るか、これは面白い。わが名を知り我が軍勢を打ち破るほどの者達がまだこの世にあるとは今宵は面白きことが目白押しではないか、じゃが遊びはこれまでじゃ。姫は渡してもらうぞ」


 唯を抱いて後退りする優佳に嬉々として朱鬼が迫る。どうすれば良いのか。相手はあの朱鬼である。優佳は戸惑った。


「お待ちなさい!」


 優佳と朱鬼の間に千佳が割って入った。


「ダメです姉様! そいつはただの鬼ではありません」


 咄嗟に優佳は前に立つ千佳の肩を引いた。

 姉の千佳とて一騎当千の陰陽師ではある。

 しかも千佳は葉月の号を与えられた者であり上位神官にも名を連ねている。

 たとえ破格の鬼と対峙したとて負けることなど決してない。しかし相手は朱鬼だ。

 しかもそのことを千佳は知らないだろう。


 水音の話では、朱鬼とは古の鬼姫討伐戦において鬼を束ねていた首領だという。

 焦るこの時、ふとした疑問が優佳の脳裏に浮かんだ。

 水音の母の千佳は朱鬼の存在を知らない。知らないはずだ。優佳も知らなかった。極月である和男も知ったふうではなかった。だから油断をした。それなのに、なのにどうして水音はその事を知っていたのか。

 危急の時にも拘わらず優佳は頭の中に浮かんだ疑義に捕らわれた。


 ――なんだ、これはどういうことなのだ……。


 掴んでいた千佳の肩が動いた。

 ハッとして優佳は我に返る。

 今はダメだ。余計な事を考えている場合ではない。目の前の敵は単騎でむやみに相手をしてはいけない相手なのだ。この場はどうにかして逃げるしかない。


「姉さん、逃げて!」

「優佳、夫をやられてむざむざと逃げるは名折れ。逃げるのはあなたです。いくらあなたでも乳飲み子を抱いては戦えません。お逃げなさい。なんとか時間は稼ぎます。水音を頼みます」


 千佳も考えた事は同じのようだ。逃げるにしても、誰かが殿しんがりを務めてその隙を作るしか手は無い。


「やりやれ、戯れ事はここまでじゃというたであろう。わしは無駄な事が嫌いじゃ。じゃから鬼姫さえ渡せば見逃してやろうと思うておったのじゃが」

「フン! それこそが戯れ事でしょう。鬼に慈悲など聞いたこともない!」

「ホホホホ そうか足掻くか。しかしのう亭主の方なら未だしもお前如きではどうにもならんぞ」

「舐めるな鬼! 参るぞ。我、火之迦具土神ひのかぐつちのみかみに御願い奉る……」


 千佳の体から気勢が上がる。目を怒らせ印を組んで呪を唱えた。


「ほほう、上位じょうい神意じんいを使うか」

神火じんかよ、悪鬼羅刹を打ち滅ぼせ!」


 千佳の手から放たれた炎が竜を象って朱鬼へと向かう。

 しかし朱鬼はそれを避けるでもなく防ぐでもなく不敵な笑みを浮かべたまま真正面から受けた。

 炎竜えんりゅうはとぐろを巻くようにして朱鬼を捉えると首元に喰らいつき、その身を焼き尽くさんと火勢を上げた。


「クククククク、アハハハハハ!」


 燃え盛る炎の中で大声をあげて笑う。朱鬼は炎の竜を身に纏ったまま何食わぬ顔をして歩を前に進めた。


「なに!」

「効かぬよ、陰陽師」


 さらりというと朱鬼は身を包む炎を事も無げに消し去った。


「くっ! ならばこれで!」


 その身最大の技を放つべく、印を組み直し千佳が呪を唱えた。

 千佳は頭上に巨大な火球を浮かべると、すぐさまそれを朱鬼へと叩きつけた。

 その火球に対しても朱鬼は余裕を浮かべたまま右手を翳した。


「わたしの炎を軽々と受けるだと。しかし、いくら上位の鬼とて腕一本で防げるものか! 甘く見るな!」

 千佳は更に呪を唱えて火力を上げた。


「ホホホホホ、上位のう、ホホホホホ」


 言葉の意を嘲るように鼻で笑うと、朱鬼は巨大な火球を受け止めていた右手に軽く気をやった。すると攻撃を受け止めていた手がいとも容易く炎を吸い込んだ。


「――ば、馬鹿な……神火を喰っただと……」

「だから効かぬといったであろう。効かぬのだよ、このわしに火なんぞはの。ククククク」


 渾身の技を易々と防がれて千佳は戸惑いを見せた。

 その隙をつき朱鬼が動く。

 それは、瞬間のことだった。優佳の視界から消えるような速さで踏み出した朱鬼は瞬く間に千佳に近づきその首を掴んで持ち上げた。


「おい陰陽師、どうやらお前は同性、火を好むようじゃ。しからばわしが本物の地獄の炎をお見せしてしんぜよう」


 朱鬼の腕から赤紫の炎が噴き出し千佳の全身を焼いた。


「う、ううう……」


 炎に包まれながらもなんとか離れようと足掻く千佳だが、首に食い込む朱鬼の手はほどけない。蹴りを当てても、身体を激しく揺らしても朱鬼は微動だにしなかった。


「流石は火を操る陰陽師といったところか、なかなかの耐性を持っておるの。しかし、燃えぬまでも熱は感じておろう。どうじゃ熱いか? 熱かろう? どうじゃ? 魂までも焼き尽くさんとする地獄の熱は如何なものかな陰陽師。ククククク、アハハハハ」

「く……」

「おい、どうした? もう終わりか? もっと根性とやらを見せぬか。ほれ、ほれ! 気を抜くとあっという間に炭になるぞ」


 この朱鬼という鬼は古の鬼姫討伐戦において敵の首領であったほどの鬼。

 千佳の上位神意を用いた呪でさえ、赤子の手をひねるように容易くあしらってしまう。

 恐らくその力は古文書によるとところの「神格」に値するのであろう。

 上狛一族の筆頭陰陽師である極月も油断があったとはいえこの朱鬼に軽々と討たれてしまった。その上に今、上位神官の重責を担う葉月の千佳をも弄るように消し去ろうとしている。


 ――やれるのか? ……私にやれるのか?


 焦燥感が不安となって纏わりついた。

 脆い。こんなにも弱気になりこんなにも不安定になっている。その姿は滑稽に見えて笑える程だった。


「フフッ」

 己の愚かさを嘲ると笑みが零れた。

 ブランクだの母としての感情だのと何をゴチャゴチャと考えているのだ。出来るかどうかなどと今更考えたところでどうなる。

 優佳の中で何かが切れた。ここにきて自覚した。ハッキリと言える事が一つだけあることに気付いた。


「――それは、ここで逃げてもどうにもならないということだ」


 対峙する相手が首領だというならば好都合ではないか。ここで敵を倒さねば我が子に平穏な未来は来ないのだ。ならば倒す。それ以外はない。

 冷静に観察してみれば相手の属性はどうやら火のようである。相手が火であるのならば自分にもまだやりようがあった。

 そう、優佳の属性は水。水音程ではないが、自分も犬童澪の再来とまで言われた陰陽師である。優佳は敵を獲物として見定めた。

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