第65話 桃花の時渡り

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 唯が倒れるその場には全ての者が集まっていた。

 向かう銀鬼の足はたどたどしい。八郎は動向をジッと見守っていた。

 氷華の獣によってもたらされた白銀の世界。

 白雪の地面に、銀鬼の足跡を辿るようにしてポツリ、ポツリと血のしるしが残される。


 集まった者は黙って銀鬼を迎え入れた。皆の目には困惑の色もない。敵意すら浮かべていない。おそらく、目まぐるしく動く展開に追いつけず思考を硬直させているのだろう。そこへ追い打ちをかけるように黄玉の言葉が届く。


「赤い月は沈んだ。桃花の神薙は消滅し銀鬼は倒れた。卑巫女も氷華の巫女もおらぬ。それでも抗うならやってみせろ。座興にもならぬが暇を持て余すよりはよい。精々頑張ることじゃな、陰陽師」


 勝ち誇る黄玉の言葉に誰も何も言い返さなかった。

 沈黙する様は消滅することを受け入れた姿に見えていた。

 頼みの綱であった桃花、加茂樹の身体は銀鬼と共に死を迎えようとしている。

 言い返すも何も、今宵の敗北によって歴史は変わり己の存在も変わる。現在の己の有様が、未来を知った先代桃花によってもたらされていることは上狛の者なら誰もが知るところであった。


 皆の所に辿り着いた銀鬼は、すまないといって澪にそっと触れた。その後、銀鬼は唯の傍らに立ち、そこで力を失って崩れ落ちた。


「八郎……」

「はい、ここに」

「長い付き合いであったが、ここまでだ」

「……はい」

「らしくないぞ、これも謀のうちだ。八郎よ歴史に齟齬が出た以上は、俺も変容するのが道理だ。ならばこれも定めだろう」

「はい」

「――これで万事、やり残しはない……全て手は打ったが」

「はい、我等はやりきりましたぞ」

「そう、だな……」


『銀鬼!』

「ああ、お前か……」

『これで終わりなのか。これで何もかも……』

「それは、お前が決めることだ」

『僕が?』

「俺は歴史を知っている」

『ああ、そうだな。でも、これで良かったのか』

「俺は、前の歴史の残滓だ。だからこれでいいんだ」

『銀鬼……』

「――あの時、俺は致命傷を受けて倒れた。気付けば、俺の魂は千二百年の時を遡っていた。……俺は、逃げてしまったんだ」

『……銀鬼』

「悔恨にまみれた加茂樹のリトライ。これが時渡りの真実だ。今度は……下手を打つなよ、俺……」


 銀鬼は笑みを浮かべ眠りについた。直後、加茂樹の身体から光の玉が浮かび上がった。樹は銀に輝く光の玉をそっと両手で受けた。銀鬼の記憶が樹に流れ込んでくる。


 ――悲しみ……。悔恨、慚愧、慕情……。


 今とは違う景色。散る桃花。ふわりふわりと舞い降りる桃色の花弁。

 桃花の園で少女の胸に抱かれる少年はうつろな目で月を見上げていた。


「樹君……ごめんなさい。私……」

「――唯、良かった。元に戻ったんだね」

 

 加茂樹の背を貫く黒色の太刀。彼を抱き留める唯は血色の涙を流していた。


「私、私は……」

「お前のせいじゃない。これは全て俺の無力のせいだ。気にするな」

「……樹君」

「ごめんな、唯。俺は、お前を守れなかった」

「……樹君」

「俺は、お前の家族も守れなかった。鈴も蘭子も……皆を守れなかった……無力な俺を、どうか、許して、くれ……」

 震える声で許しを請うて加茂樹は目を閉じた。

 

 桃園で起こった悲劇の顛末。凄惨を極める戦場の光景。

 家族を死なせ、蘭子と鈴を死なせ、上狛の者達を死なせて一人残された加茂樹は最後に唯の手によって討たれた。


「樹君! 樹君! ――私、どうしたら、私は皆を不幸の底に突き落として……私、どうしたら……」

 

 それは敗北の軌跡。無力な自分が行き着いていたであろう悲劇への筋道。

 樹は穏やかに目を閉じる自分の骸を見た。周囲の誰もが皆、言葉も出せず肩を落として下を向いていた。だがその時、樹だけは強く拳を握って心に決意を抱いていた。

 失望の中で、樹だけは更なる未来を見据えていた。

 遂に自分に出番が回ってきたのだ。これで最後だ。手は打たれ、全ては自分に託された。

 

 銀鬼が行ってきたこと。知らされた古の出来事。時を遡って見てきた時間の記憶。銀鬼の全てが樹の中に流れ込む。


 思えば、春休みに入ってからこの日まで様々な出来事があった。唯を探していた自分が導かれるようにして力に目覚め、鬼を倒し、人と出会う。そのうちに次々と明かされていく真実の歴史。その全てが「桃花の時渡り」に収束される話であった。


 何としてでも成し遂げなければならなかった「桃花の時渡り」とは何か。


 ――単純に強さだけを求めたわけではなかった。

 鬼の王になると言った銀鬼。唯のことを救わないとうそぶいた銀鬼。敵も味方も欺き、真実を何一つ語る事なく銀鬼は沈黙した。それは全て愛する者達を救う為に行ったこと。銀鬼がここまで積み上げ成し遂げようとしたことを今、自分が引き継ごうとしている。


 ――いや違う。引き継ぐのではないな。

 樹と銀鬼は全てが同質で同等である。ならばこれは加茂樹の意思。

 今なら分かる。鬼姫となった唯を救う為に。全ての者を救うために。樹は果たさねばならない。


『時を渡ろう。そしてここに戻ってくるんだ。前回と同じ過ちは犯さない』


 樹は呟くように言った。


 誰にも見えなくてもいい、誰にも聞こえなくてもいい。これは自身が辿り着いた答え。樹だけが出来ることで樹にしかできない事。だから樹はその気持ちを固い決意と共に口に出す。


『まだだ、まだ終わっていない。これからだ。最後の一手は僕が打つ!』


 樹の言葉を耳にした八郎が下を向いたまま表情を隠してそっと笑む。


「八郎よ」

 一人微笑を浮かべる八郎に目覚めた老婆が声を掛ける。


「お目覚めになりましたか、澪様」

「これで終わりなのか? ……月は沈んだ。もう桃花の時渡りも、時の必然も消えて無くなるのか」


 老婆が消沈して尋ねるが、八郎は答えず沈黙をする。

 そこで樹は目を覚ました。


「寒っ!」

 突然身震いをさせて目を開いた樹に周囲の者が驚く。


「い、樹様!」

「樹!」


 鈴と蘭子の明るい声が重い空気と静寂を破る。


「加茂樹! そ、そなた!」


 老婆も目覚めた樹を見て目を丸くし驚きの声を上げた。

 そうしているうちに樹に遅れて唯が目覚めた。その唯が辺りを見回す。唯は自身の無事を確かめた。


「……傷がない」

「そうだね、唯。身体はちゃんと無事だよ。銀鬼が唯の呪いを解いて蘇生してくれたからね」

「――樹ちゃん?」

「そうだよ。僕だよ、唯、お帰り」

「た、ただ、い、ま……」


 訳が分からないといった感じで唯は小首を傾げる。


「目が覚めたところで悪いんだけど、ちょっと急いでいるんだ。今の事情も、優佳さんのことも後でちゃんと話をしよう。神楽舞の氷華の舞を覚えているかい?」


 樹の話す事に唯は、小さく頷いた。


「じゃあさ、悪いんだけどちょっと手伝ってくれる? 一緒に舞を舞って欲しいんだ」

「え? でも私、大丈夫かな? ちゃんと出来るかな……」

「大丈夫! 心配ないよ」

「でも、ちゃんと舞うの初めてだし、みんなの前だと緊張するし……」

「昔、あれだけ稽古したんだからさ、始まっちゃえば勝手に体が動いちゃうよ」

「樹ちゃんはそんなふうに出来るかもしれないけど……」

「唯、いい事教えてあげるよ!」

「いいこと?」

「そう、いいことだよ、これはとっておき秘訣だね」

「え?」


 樹は唯に向かって悪戯な視線を送り、そして片目を瞑る。


「覚えているかい? 昔、神楽殿で予行練習をやったこと」

「あの時も教えてあげたよね?」

「え? でも……覚えてるけど……」

「ならそれでいい。唯はさ、適当にやっちゃっても構わないってことで」

「え?」

「大丈夫、大丈夫、いざとなったら僕がわからないように助けるからね」


 白銀の世界で、唯と樹の氷華の舞が始まった。

 二人が優美な舞を舞い出すと鈴が何かを思い出したようにして慌てて叫ぶ。


「い、樹様! 何を、何をなさろうとしておるのですか!」

「え? 何をって、鈴、どういうことだ?」

「蘭子も覚えているでしょう、あの夢を」

「――あの夢……あ!」

「なんじゃ! 白の巫女よ、加茂樹がどうしたというのじゃ!」

「樹様と蘭子、そして私は、三人同時に以前このようなシチュエーションの同じ夢をみているのです!」

「なんじゃと? してその夢とは?」

「樹様が唯ちゃんを殺す夢です!」

「樹が唯ちゃんを殺す夢だ!」


 鈴と蘭子が声を合わせる。


「な、なんじゃと! で、では加茂樹はそれに習っておるというのか! しかし、一体何故? その事に何の意味が!」


 樹と唯の優美な舞が交差をする。二人がお互いに手にした太刀を激しくぶつけ合った。その光景は先程、銀鬼と鬼姫が見せたものとは違う。

 切なく、思いを伝え合う舞。

 激情を奏でて舞は進む。動きが徐々に緩やかになっていくと、舞は終盤へと差し掛かっていった。美しくも儚い舞は見る者の息を飲ませた。鈴の話は見るものすべてに悲劇を予見させていたが誰も動くことが出来なかった。


「ダメだ樹!」

「樹様!」


 蘭子と鈴が叫び、樹を止めようとする。場面が徐々に夢の情景との一致を見せ始めた。


 白銀の世界を舞台に舞いながら樹が唯を見降ろす。

 唯が大粒の涙を溢しながら樹を見上げた。


「――ごめんね、唯、でも全てを超越して戻るに為にはこれしか方法がないんだ。そして唯しかいないんだ」


 記憶は授けられた。しかし力は自ら取りに行かねばならない。時を渡らねば手に入れることが出来ない。歴史の踏襲、それが現在の加茂樹に与えられた選択である。

 このまま、ここに残ることも出来るだろう。

 ――どちらにしても桃花は茨の道を行く、か……。

 樹が微笑む。応えて唯は頷いた。


「ありがとう、唯」

「樹ちゃん……」

「大丈夫だよ。安心して。任せてくれればいい」


 不安そうに見つめる唯に、兄としてあるだけの気持ちを込めて樹が頷く。


「これが最後だ。これで僕達の指し手が完全に決まるんだよ」

「僕達?」

「そう僕達だ。銀鬼は僕で、僕が銀鬼なんだよ」

「樹ちゃんが、銀鬼?」

「詳しい事はまた後で話すよ。僕は行かなくてはならない」

「行く? 行くってどこへ? 樹ちゃん、樹ちゃん、どこかへ行っちゃうの?」

「うん、そうだよ。僕にはこれから行かなければならない所がある。そしてやらなければならないことがあるんだ。これが時の必然。これが僕の使命」

「樹ちゃんの使命……」

 

 行く先が千二百年の時の向こうだと話しても、唯には理解できないだろう。唯は何も知らずにここに来ている。でも心配はない。待たせることも無い。樹にとっては長い旅路であるが、唯から見ればそれはわずか数秒に過ぎない。だから直ぐに会えるさと樹は思う。それに戻れば訳を話す時間などいくらでもある。


「心配しなくていいよ。ちょっと行って来るだけだから」


 軽い調子で話樹は唯に笑顔を向けた。唯はただ黙って頷くだけであった。

 事態が夢見の通りで進むのならば結末は悲劇である。しかし二人の舞の結末はあの夢とは、前の歴史とは真逆の様相を見せるだろう。

 流麗に足を運び可憐に舞っていた唯は、唐突に舞の流れに逆らって一歩後退りをする。その場に片膝を付き屈みこんだ唯は、切先を樹に向て突撃の構えを取った。


「な、なに?」

「ゆ、唯ちゃん! 何を!」


 それは「氷華の舞」には無い動きだった。だから鈴と蘭子は戸惑いを見せる。

 唯の手は震えていた。必死の瞳が樹を見つめてくる。樹はその様子見てもう一度笑み浮かべて頷いた。


「歴史は繰り返される。今度は希望と共に!」

 次の瞬間、樹は自ら唯の太刀に飛び込んだ。唯の黒い太刀は樹の胸を貫いた。


「樹!」

「樹様!」


 再び沈黙が場を包み込んだ。もはやその場には状況を理解する者など一人もいなかった。

 何が起こっているのか、これから何が起こるのか、果たしてこれは絶望なのか、希望なのか。

 痛みを含んだ空気の中、唯の胸に抱かれるように受け止められていた樹の身体はその腕から滑るようにして地に崩れ落ちた。

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