第3話 猿楽の巫女
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「天平宝字二年」
手にした古文書に記されたその年号は日本史の授業では馴染みが薄かった。
西暦でいうと七五八年となり、今から千二百六十年ほど前になる。この年に大仏殿がどうのと聞いたことがあるような無いような。
史実はともかくとして、この天平宝字二年に加茂家の始祖は産声を上げたとされる。元は武家の出であり、生誕は加茂家では無い。後に始祖は、
加茂という家名は始祖が家を興すときに名乗ったものであった。その加茂家は元はどこかの家の分家筋にあたるということだったが、系譜の元となる本家が如何なる素性であったのかはまだ分からなかった。
そんな格下の加茂家とは違い、
「――まったく、暖房も使わずにこんなところで徹夜か、風邪を引くぞ」
後ろから覚えのある声が聞こえた。張りのある元気な声で直ぐに幼馴染みの
「おい、聞いてるのか、樹!」
声が返事を促すように大きくなった。
「――ああ……聞こえているよ蘭子。おはよう」
「ああじゃないよ、まったく……よくまぁこんな寒いところで朝まで」
「寝ちゃったんだよ仕方ないだろ」
早朝からよくもまあこんなテンションで話が出来るものだと半ば呆れる。仕方なしに声の方を振り返ると、蘭子が入り口で腕を組みやれやれといった表情で樹を見ていた。
「寝ちゃった、じゃないよ。あんたしっかり毛布なんか持ち込んでいるじゃないか」
「ああ……これは……」
ここの寒さは樹が一番よく知っている。徹夜でなくてもこれくらいの用意はするさと心の中で呟いた。
「……うう、寒い。この部屋、奥にいくほど冷えるな」
蘭子は部屋の中に入ると辺りを見回し両肩を抱いて震えて見せた。
「そんな短いスカートを穿いているからじゃないの? 蘭子より見ている僕の方が寒々しく感じるんだけど」
「バ、バカ樹! 何処を見てんだ!」
蘭子は慌ててスカートの裾を両手で下げた。
「その恰好を見て寒そうだなって思っただけだよ、なんで僕が蘭子のそんなものを見なきゃいけないのさ」
「そんなものってなんだよ! 私も一応、女の子なんだぞ! それにな、これでも学校ではちょっとした人気もあるんだぞ!」
歯を見せて笑う蘭子は、腰に手を当ておどけて見せた。
「はいはい、一応ね、これでもね」
樹は、蘭子の言い分を一蹴した。
物心がつく前から加茂家に出入りしている蘭子。樹の感覚では幼馴染みというよりは家族に近い。当然、蘭子のことを異性として見たことは無かった。
蘭子は男子からも女子からも分け隔て無く好感を持たれるタイプだった。普段から好んでいる短い髪は彼女のその快活な性格をよく表している。少々言葉遣いの悪いところが玉に瑕といったところではあるが、大きな瞳を輝かせて明るく笑う姿はとても可愛らしく、妙に親しみを感じさせ人を引きつけるようなところがあった。
「おい、樹」
「なに?」
「これは何だ?」
部屋の様子を探るように見ていた蘭子が指を差した。そこには樹の寝床があった。キツく眉根を寄せる蘭子。その視線の先には大小様々な桑折が無造作に転がり、雑多な古文書が幾つも積み上げられていた。
「本の山に、毛布まで持ち込んで、しかもこんなライトまで。これはもう徹夜する気満々だったんじゃないか。それならせめてヒーターくらい持って入ったらどうなんだ」
「こんな広い部屋にヒーター一つ持って入っても一緒だよ」
「それはそうかもしれないけど、それでも少しぐらい暖まれる場所があってもよくないか」
「朝までいるつもりはなかったんだよ」
返す言葉に呆れ顔を浮かべる蘭子を見て、これでは何を言っても倍になって小言が返ってくるなと覚悟をした。
……しかし、この日の会話は続かなかった。
いつもとは違う雰囲気の蘭子。よく見ると、樹の言葉を聞き流した蘭子は書物の山を見て何かを考えている様だった。
「あーあ、それにしてもすごい量だな。手あたり次第って感じだ」
蘭子は古文書の山に向かって溜め息をもらすと、徐に床にしゃがみ込んでスタンドライトのスイッチを切った。その後、手に取った書物のタイトルを一つ一つ伺いながら拾い始めた。
「ああ、いいよ僕がやるから」
樹も直ぐに駆け寄って書物の片づけを手伝った。
「これ、付箋とか貼ってあるけど?」
手にした書物の一つを樹に見せて蘭子が尋ねる。
「あ、ああ……」
「聞いたぞ樹、あんた暇を見つけてはずっとこの部屋に籠もっているんだって?」
「蘭子、ここは僕の家なんだよ。僕が家の中で何をしていてもいいだろ」
会話が核心に迫ることを嫌って適当にはぐらかそうとした。しかし蘭子の視線は樹を捉えて離さなかった。
――やはり蘭子は何かを聞いてここに来たのだ。
樹は身を固くした。慎重になった。蘭子が自分のやっていることをどこまで知っているのか、それを尋ねることは逆にこちらのことを話すきっかけになりかねない。
逃げるように蘭子から視線を外す。どうしたものかと考えながら樹は手にしていた古書に目を落としパラパラとページを捲った。
蘭子が唸る。
探るような態度から蘭子が何かを聞きつけてここに来たということはもう確実だった。
樹が一人で収蔵庫に籠もって調べ事をしていることは互いの親の間ではすでに知られていることだろう。僅かな情報でも共有する間柄。互いの家はそれ程に親近感を持っている。樹の怪しげな行動はいずれ蘭子の耳に入ると予想は出来ていた。
それでも樹は自分がここでやっていることを蘭子に知らせる気は無かったし、変なふうに勘ぐられることも嫌っていた。
「ここの跡継ぎとして今から家の歴史の勉強をしておこうってわけじゃないよな?」
「ああ、まあ……」
蘭子に背を向けたまま目に付く古書を片端から拾い集めた。
「――まぁ、いいけどさ。それより樹、あんた相当顔色が悪いよ、大丈夫なのか?」
「あ、うん、別になんともない」
樹は拾い集めた書物をトンと揃えて床の上に置いた。
「なんともない。っていうふうには見えないな。ちょっと見ただけで分かるよ、これは根の詰めすぎだよ。あんた、春休みにこっちに帰ってからずっとここに籠もり切りだっていうじゃないか、いい加減にしないと本当に病気になっちまうぞ」
蘭子は立ち上がり自分の集めた書物の束を樹に手渡した。
「心配はいらないよ、大丈夫だから」
「そんな辛そうな顔して言われてもな。樹、あんた今の自分の顔を鏡で見てみなよ。相当酷いよ」
「そんなに酷い?」
「ああ、酷いな」
苦笑が零れる。言われて初めて自分の疲労に気が付いた。それでも樹は今のこの調査のペースを変えるつもりはない。ただし無理をし過ぎて倒れてしまえば貴重な時間を無駄にしてしまう。どうしたものかと今後の事を考えようとしたとき。
「熱はないのか?」
不意に近付く蘭子の気配にハッとして、手にした書物から目線を上げると蘭子が髪を耳に掻き上げながら額を寄せてきていた。
「ちょ、ちょっと蘭子!」
息を受ける距離で少女の唇を見て慌てた。この時樹は自分の鼓動が少し早まっていたのを感じていた。動揺している。樹は、幼馴染みの何気ない行動に照れてしまった自分と抱いてしまった羞恥を隠そうとして逃げるように背を向けた。
「なんだよ樹。あ、ちょっと、まて!」
不自然な仕草を怪訝に思ったのか、蘭子は樹を逃すまいとして前に回り込み顔を覗き込んできた。再び、至近距離に少女の顔が近付いて来た。――狼狽した。
樹は無邪気を見せる蘭子を両手で制するようにして押し戻した。
「だから、蘭子。なんで熱を測ろうとするのにおでこなんだよ!」
「あ、そうか、それもそうだな」
合点がいった蘭子はニコリと笑うとそっと樹の額に手を伸ばしてきた。蘭子の手の温もりが冷えきっていた樹の額に伝わってくる。
――暖かいな、蘭子の手……。
「うん、熱はないようだ。でも本当に大丈夫なのか? 樹」
「ちょっと寝不足なだけだよ」
「ならいいけどさ……」
いいながらも蘭子は樹のことがまだ心配なようで、再び残りの書物を集め始めてからも、しばらくは樹の様子を注意深く窺っていた。
「――樹?」
「なに? 僕ならもう大丈夫だよ。蘭子はさ、もう母屋に戻ってなよ、ここを片付けたら僕も戻るからさ」
樹はさりげなく蘭子を遠ざけようとした。
「あ、ああ、うん。でも一緒に、一緒に片づけるよ。あんたまだ顔色が悪いからね」
蘭子は言葉を濁した。言い繕う蘭子は、テコでも動かないと言った具合だった。やはりこの日の蘭子はいつもと違う。そこで樹は少し探りを入れてみた。
「それより蘭子、こんな朝早くから何しに来たんだよ」
「ああ、ええっとそれは……」
何かを言いかけて口ごもる蘭子。樹のことを案じていた先程までの態度とは違い、急に歯切れが悪くなった。
「どうしたの?」
「ほら、それはその……。何て言うか、その……」
「なんだよ、はっきり言えよ。蘭子らしくない」
「……急な話なんだけど、
「あたし達?」
「あ、うん、今日は
鈴も来る。聞いた樹は、大人たちが今年の祭りに蘭子と鈴の二人を呼び寄せたことに呆れた。
「……なるほどね、久しぶりの祭りってことで興を添える為にわざわざ猿楽家と白雉家から巫女様を呼んだってわけだ」
樹の加茂家と蘭子の猿楽家、そして鈴の白雉家は遡れば気の遠くなるような長い時間を共に歩んできている親交の深い家だった。
猿楽家も白雉家も加茂家と同じように代々続く神職の家系であった。
両家が加茂家と違うのは猿楽家も白雉家も代々後継者が女子と決められているということくらいだろうか。蘭子も鈴もそれぞれの家では巫女を務めていて、いずれは自分の神社を継ぐ事になっていた。
わざわざ正当後継者の二人を祭りに呼び寄せるとは何とも仰々しい事だと樹は大人達のあざとさに嫌気がさした。
「樹……」
「気にしなくていいよ、僕はなんとも思っちゃいないさ。それより鈴ちゃんももう来てるの?」
「あ、鈴はまだだよ。あいつ朝が苦手だからな。まぁ、練習は午後からだからそれまでには来ると思うけど……」
蘭子の言葉の終わりが少し淀んだ。
「いいんじゃないのそれで」
「――あ、あのさ樹」
「なに? もうここはいいよ。稽古もあるんだろ? 戻ってなよ」
「でも……」
「午後からの予定なら、こんなに朝早くから来なくてもよかったのに、まだ眠いんじゃない? 屋敷に戻ってゆっくりしておいでよ」
「あ、ああ、うん、稽古はそうなんだけどさ、あたしってほら朝は早く目が覚めちゃうほうだからさ、朝は平気っていうか。それに、どうせ昼までやることもないし、暇だからさ」
すぐにこれは嘘だなと思った。
蘭子の取り繕う様子を見れば分かる。昔から蘭子は分かりやすい。
やはり思った通りだ。蘭子は何かを確かめに来ているのだ。
「蘭子、誰に何を聞かされて来たのかは知らないけど、これは僕が好きでやっていることだ。だから僕のことを気にすることはないんだよ。それに、僕はここにずっと引きこもっているわけではないのだから」
いって樹は蘭子から少し距離を取るために奥の棚の方へと向かった。
その場所で
「あ、いや……」
戸惑うような蘭子の小声が聞こえてきた。
「なんだよ、お節介で引っ張り出そうとしにきたんじゃないのか? それともなに? もしかして心配してくれてたの? それなら大丈夫だよ。ちゃんと食べてるし、眠くなったら寝てるから」
「え? あ、ああ、あはははは、心配? うん、それもあるけど、引き籠もりが心配というか……」
振り向くと彼女は一瞬バツの悪そうな顔をしてからそれを笑い顔で誤魔化した。その後で何かを言い淀んで下を向く蘭子。
「なに? 他にも何かあるの?」
――言ってしまってハッとした。
話の流れにのってしまい、思わず他に何かあるのかと口に出してしまったことを後悔した。
窺い見ると、蘭子は口を固く結び何かを考えているようであった。そうして一呼吸の間を置いた口が開く。蘭子は、話を切り出すならここしかないというように意を決した顔を見せ本題を切り出してきた。
「樹、……樹はここでずっと唯ちゃんの為に何かを調べているんだろ?」
「…………」
樹は思わず書物を片付ける手を止めてしまった。
「昨夜、母さんから聞いた。樹が神社の収蔵庫に籠もりきりで何か調べものをしているって」
「…………」
「樹?」
「あ、ああ、まぁちょっとね」
「――それって唯ちゃんのことなんだろう?」
「唯のことだって聞いてきたのか?」
「聞いてない。何かの調べものだということしか……」
「そう」
「でも分かるよ。樹がこんなに必死になって探しているのはきっと唯ちゃんのことだって。あたしには分かる」
蘭子の真剣な眼差しに耐えられなくなり樹は視線を外した。
「そうなんだろ、樹」
「関係ないだろ」
「関係ないなんて言うなよ! ちゃんと、ちゃんと話してよ」
見つめてくる蘭子の視線が痛かった。
「警察は今もまだ唯ちゃんの誘拐事件を捜査しているんだよな?」
「ああ、でも、この春から規模は縮小されるって言ってた。あれからもう五年だしね」
「あの氷華祭りからもう……」
下を向く蘭子から細い声が漏れた。
「僕は、もう五年も無駄に時間を費やしてしまっている……」
ポツリと溢した。
悔しさの中で吐き出した言葉が途中で力を失いそのまま自責となって返る。
「――やっぱり唯ちゃんのことだったのか……それで? 樹はこんなところで何を調べているんだ? 警察の手伝いでもしているのか?」
「……違うよ。捜査の為の用事がここにあるのなら、警察の人間が大勢来てここで調べものをするだろ」
樹の話を聞いて、蘭子はひとまず腑に落ちる様子を見せたが、それでは何故というふうに首を傾げて辺りを見回した。
「それじゃあ、樹は一体何を……」
「聞いても無駄だよ。僕にはその事を話すつもりはないし、話したところで信じられるはずがない」
樹には、何をどう話しても相手を納得させられる言葉が用意できない。
ここでやっている事は他者からは到底理解されないことだ。
今の自分の姿は。現実の事件にオカルトを持ち込んで逃避している哀れな兄の姿にしか見えないのだから。
「樹、そんなの話してみないと分からないじゃないか!」
「…………」
樹は沈黙で答えを返した。
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