第32話 鬼姫の母

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 夜の帳が降りると、神楽殿を囲うように置かれた篝火かがりびの炎がその存在感をより増したように見えた。煌々と灯る明かりとパチパチと音を立てるたきぎ。立ち上る煙さえもどこか厳かに感じるような夜であった。


 真中まなか優佳ゆかの目の前で演じられている優美な歌舞うたまいは千二百年もの長い時を乗り越え、現在も変わることなくこの氷狼神社に継承されてきていた。ただし、それは形だけでのことである。優佳は知っている。氷華の舞の持つ使命がこの時すでに失われてしまっていたことを。


 時は流れ、それと共に人も変わる。それは、仕方のないことなのだろう。

 それでも、火は燃える。火の粉を上げるこの炎はどうだ。炎は千二百年前から現在に至るまで全く姿を変えることなく見る者の目に映り込んでいるのではないのか。心は、瞳に橙色の炎を映しながら憂えた。


 揺れる炎を見つめながら悠久の時の流れに思いを馳せ、おぼろげに世事を眺めてみれば、時を経て変わる物と変わらない物がこの世にはあるのだということに気付く。

 今更ながらだな……。

 陰陽五家と上狛一族の違いを時の移ろいの中に見て取った優佳は、世界はなんと不公平で理不尽なものなのだ。との思いに至り、己を悲観してしまうのだった。


「どちらも同じ使命を背負っていたはずなのに……」

 優佳の口から重苦しく呟きが漏れる。


 上狛一族が背負う使命はあまりにも重く厳しい。その上、抱く使命は決して解放される事のない呪縛のようなものである。だが、こちらは違う。同じ使命を背負っているはずの陰陽五家と上狛の現在り様の余りに違う様を思えば、そこには何か大きな理由があるのではないかとさえ思いたくなる。


 ――詮無きことか……これも今更だな。


 考えても仕方の無いことだと思いを伏せる。優佳はまたいつもの袋小路で立ち止まった。千二百年という長い歴史の中において歯車の一つでしかない己が、時を遡って先代桃花の意中を推量し、計略の深淵を考え抜いたところでその者が残したとされる予言の真意になど到底思い至る事はないであろう。

 全てが定めなのだ。我が身が置く立場も、娘のことも、全て。


 優佳は夜空を見上げた。

 風の流れを見ると、そこに桃の花弁が一枚、行くあてもなくふわりふわりと漂って消えた。


 唇を噛む。優佳は理由が欲しかった。

 だからこうなのだという確たる理由が欲しかった。

 予言だの宿命だのというお仕着せられた言い回しで片付けて欲しくはない。


 運命ならば逆らうことなどは出来ないのだ。それは飽きるほど繰り返してきた言葉だが、納得など出来るはずもない。

 そこから抜け出そうと足掻く己がどれほどの奮励ふんれいを重ねてきたことか……。

 しかし、結局のところは手立ても無く、我が身は奔流に流されていくばかりで、数多振り返りて考えれど、それはまるで賽の河原で小石を積むかの如きで最善の策などは一向に見つかりはしなかった。


 今この瞬間にも、何か出来ることは無いのかと考えればその答えの無さに胸の奥が掻きむしられ、気が狂いそうになる。

 それは優佳と腕の中で眠る赤子にとってあまりにも重すぎる定めであった。


 耳に届く雅楽の調べ。観客の感嘆。優雅な祭りは平穏を象徴するようだった。

 桃花咲き乱れる神楽殿を見ると、その舞台袖で八歳の少女が初めて見る歌舞に目を輝かせていた。


「どうじゃ、わしも康則殿に引けを取らぬであろう」


 まるで時代劇に出てくるお姫様のような口調と歌舞をまねて手足を動かすその無垢で明るい振る舞いは今宵の主役の座を舞手から奪い取るほどにその場に集まった家々の大人達を大いに和ませた。


「優佳、その子はどこの子なの、随分と歌舞がお好きなようだけど」


 大きな口を開けて笑いながら猿楽さるがく十和子とわこがいった。


「十和子様、すみません。あの子の名は上狛かみこま水音みずねといいます。私の姪で、今夜どうしてもここの神楽が見たいといって聞かないものですから仕方なく……」

「あらそう、姪御さんだったの。別に遠慮しなくてもいいんじゃないの。ちょっと変わった子だけど面白いわ」

「これ、十和子殿。このわしに向かってちょっと変わったというのはどういうことかの?」


 十和子の声を聞きとって水音が頬を膨らませた。


「こ、こら水音ちゃん、十和子様に向かって――」

「良いって、良いって優佳、子供はこれくらい元気な方がいいのよ。水音ちゃん、蘭子の良いお姉ちゃんになってくれると嬉しいわ。これからもどうぞよろしくね」

「それは無論じゃぞ十和子殿」


 水音は、十和子の後ろで様子を窺うようにして隠れている蘭子の方へと駆けだしていき、その顔をまじまじと覗き込み「よろしくね」といって笑った。


「あら、それは良いお考えですわ。では樹のことも水音ちゃんにお願いしようかしら」

「あ、それならば、鈴のこともお願い致しますわ。そうね、水音ちゃんには皆のお姉さんになって頂きましょうか」


 加茂かも美里みさとがいって白雉はくち恵子けいこが続いた。


「うむ。任せておくのだ!」


 水音が胸を一つ叩いて満面の笑みを浮かべた。


 再び舞台の上に目を向けると雅楽の旋律は耳に心地よく、幻想的で華麗な康則の歌舞は心に春の到来を思わせるようで、優佳に一時の安らぎを与えた。

 舞台のすぐ横を見ると、幼き桃花が父親の歌舞を食い入るように見つめている姿があった。

 この幼き桃花はわずか三歳にしてつたなくも氷華の舞を我がものとして舞うのだという。

 しかしこれは才能というよりは定めというべきもの。

 真中家に女児が誕生したとなれば、いずれはこの子供にも桃花としての定めが宿る。いやもうすでに宿っているのであろう。だからこその才、だからこその振る舞いである。

 己が目に写した技を瞬時に我がものとする。鬼眼きがんと呼ばれる能力はこの子供がその魂に宿す特異な力である。 それは平安時代、検非違使けびいしを担っていたある一族が鬼神から授かった力だといわれているが正確な起源は定かではない。しかも鬼眼はその一族に脈々と継承されるものの誰にでもその力が宿るわけではないという。

 陰陽師の、それも桃花を名乗る加茂家の血筋に何故このような鬼の血が混ざってしまっているのか、なぜ当代になって突然加茂樹がその力を発現させているのか、そして陽の木気と因の鬼気が混在し共存するというありえない状況が生じている訳が何であるなのかなど優佳には計りしれないことではあるが、だだそれが我が子の唯に起因していることはもう間違いのない事なのだろう。


 真中に忌み子とされる女児が生まれ、加茂家に桃花が現れた。ならばここにいる猿楽と白雉の子もまた何かしらの力と定めを持つ者ということになる。しかしそれを知る者は優佳以外にここにはいない。

 陰陽五家の者は皆、己が定めを忘れてしまっていた。

 千二百年という時の流れは、各々の系譜が脈々と伝えてきたものを風化させていた。

 穏やかに笑う陰陽五家の母親達とあどけないその子供等をみて、この先もずっと何事も起こらずにこのような平和な日々が続けばいいのにと優佳は願う。

 けれども因はすでに動き出している。優佳は腕の中にある我が子を見て憂えた。


「……ん? どうかされましたか? 優佳さん」

「――い、いえ、なんでもありません」


 柔和に問いかける白雉恵子に対して、優佳は心に秘めた事を悟られまいと無理やりに笑顔を作って見せた。

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