第42話 物語

「お兄ちゃんー。お風呂空いたよー……って何してんの?」


突然俺の部屋の扉が開き、バスタオルを頭に乗せた美玖が姿を現した。

表情を見ることは出来ないが、声音から俺を不審がっていることは理解出来る。


「ちょっと探し物をな…………あった」


記憶に新しい本の背を捉え、本棚から引きずり出す。

そこら辺にほっぽり出していた訳では無いため、当然埃をかぶってはいない。

それでも懐かしさを感じ、思わず表紙をそれこそ埃を払うかのようになぞった。


「何それ? 小説?」


興味を惹かれたのか、美玖は隣から俺の手元にあるそれを覗き込んでくる。

同時に漂ってきた美玖専用のシャンプーの香りが思考を僅かに乱すようで少し鬱陶しい。


「恋愛小説だ」


「へー、お兄ちゃんもそういうの読むんだ」


「ああ。おかげで恋愛マスター」


「──それはない」


「……お兄ちゃん、冗談にくらい付き合ってくれてもいいと思うんだ」


美玖の鋭い切り返しに肩を若干落としながらも、本棚の元を離れる。

手に持つ本をそのまま机の上に置き、俺は椅子に腰掛けた。


「まだそれ読んでないの?」


「読んだことはあるけど、結末が思い出せなくてな。 今日を機に読み返そうと思った。……ていうかなんで部屋に戻らないんだよ」


質問に答えつつ、流し目で俺のベッドに我が物顔で腰を下ろす美玖を軽く睨む。

今はまだ座った状態だが、このまま寝転ぶ姿が想像出来る。


「気にしない気にしない。そんな細かいことに突っ込んでばかりだから、友達出来ないんだよ」


「余計なお世話だ……。それに数秒前に俺の冗談を食い気味に否定したやつに言われたくない」


「──私、友達いるもん。それもたくさん」


「…………ベッドでもなんでも好きにお使いください」


「わーい。お兄ちゃんありがと!」


美玖のわざとらしい弾んだ声に歯を噛み締める。

自然と兄妹の上下関係が逆転したけれども、友達が多い方が有利みたいなのおかしくない?

どこぞの妖怪を戦わせるゲームだって量より質だぞ。

まあ、俺の場合ゼロだから質も何もないんだけどね。


「それ、読み返す前に私に貸してよ」


「……俺これから読むつもりなんだけど?」


突然投げかけられた提案に眉をひそめる。

しかし美玖はこの反応は織り込み済みのようで、表情を変えずに上体をやや後ろに傾けた。


「お兄ちゃんにはまず先にお風呂に入って貰いたいの。読み終わる頃には絶対冷めちゃってるし、沸かし直すのは電気代がかかるから。それに……今『何でも』って言ったばっかりじゃん」


「……それでどうしてお前に本を貸すっていう流れになるんだよ」


「読みたいから。本を読むのにそれ以外にないでしょ?」


美玖がバタバタと無邪気に足を揺すりながら、それとはミスマッチな悪い笑みを口元に浮かべている。

成長しているのは確かで兄として喜ばしいんだけど、ベクトルが違うんだよな……。


とはいえ美玖の今の言い分は最もだ。

これから読み始めればどんなに早くとも一時間はかかってしまうし、俺とてそれによって進んで無駄使いをしようとは思わない。

それになんとなく、この物語の結末を思い出したくなっただけなのだ。

今日にこだわらなくても、美玖に貸し終わった後に読めばなんら不都合はない。


美玖に言い負かされる形なのがどうにも気に食わないが、それでもなんとか納得し考えをまとめると、本を机に置いたまま席を立つ。


「それじゃあ、風呂入ってくるから」


「はーい。ごゆっくりー」


「何でもとは言ったが、荒らしたりはするなよ」


「妹を空き巣扱いしないで欲しいな」


念の為、美玖のこれからの行動に釘を刺し部屋を後にする。

去り際に見えた、美玖が枕を胸に抱きベッド上を転がる姿にため息をつくのを忘れずに。



風呂から上がり、歯磨きなど寝る前の用事を済ませた俺はそのまま階段を登っていく。

俺の部屋のドアの隙間からは淡い光が漏れていて、狭い廊下を弱々しく照らしている。

……そろそろ寝る時間だっていうのに。


時刻は夜の九時半。

昔から朝早くの家事などを母さんの代わりにやってくれている美玖は、いつの間にか早く寝る習慣がついてしまったらしくどんなに遅くとも十時にはいつも眠りについている。


にも関わらず、まだ部屋の電気がついているということは、きっとあの小説が美玖を夢中にさせたのだろう。


それ自体は悪いことではないが、習慣を崩すことにあまりいいイメージがない。

たとえそれが年相応のものではなく、俺が甘えていた結果出来てしまったものであっても。


「夜更かしは美容の敵だぞ……って寝てるし」


予想は簡単に、俺のベッドで安らかな寝顔を見せる美玖によって覆された。

その枕元には不自然に開かれた状態の本があり、美玖が寝落ちしたことを雄弁に語っている。


「全く……自分の部屋で寝ろよ」


届くはずのない悪態をつきながら掛け布団の乱れを直し、本をとじてそのまま枕元に置く。

しかしそこで生じた揺れが刺激を与えたのか、美玖は僅かに身じろぎした。


「……お兄ちゃん……」


「……これじゃ起こせない、か。ソファで寝よ」


無理に起こすのは忍びないため、部屋を出ることに決めた。

いくら兄妹と言えど、高校生と中学生。

さすがに一緒に眠るのは倫理的に問題だろう。

神崎にも何か言われそうだし……。

お小言を凄い勢いで並べる神崎を想像した上で、部屋の電気をなるべく音が鳴らないように消した。


「おやすみ、美玖」


返ってくるはずのない返事を待つことなどする訳もなく、再び一階へと階段を降り進めた。

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