第25話 確固たる決意
美玖の部屋の前で足を止める。
立ちのぼる湯気の量は先ほどより減っていて、雑炊が食べやすい熱さになったことを知らせている。
「──入っていいよ」
ドア越しからの突然の声に、思わず肩をビクリと震わせる。
それでも何とか冷静を装うために深呼吸をして、おそるおそるドアノブに手をかけた。
「……起きてたのか」
「うん。下の階から怒鳴り声が聞こえたら、さすがにね」
「それは……悪い」
鍋を机に置いて、空いた手で椅子をベッドの脇に運ぶ。
その俺の姿を横目で見るや、神崎も上半身を起こす。
「……ネットのやつ、見た」
「うん、それも聞こえてきたから知ってる」
実際には数時間ぶりなのに、まるで何年も会っていない風な会話。
お互い顔を合わせることなく、俯いたままだ。
「あれは事実……じゃないよな?」
それでも何とかして視線を徐々にあげていく。
あれだけ美玖と話を整理し、頭では理解しているというのに、神崎に尋ねることは緊張する。
「……うん、まだ……しょ、処女」
頬をほんのりと赤く染めながら、俺とは対照的に顔を合わせようとしない神崎。
……問いかけの本質を別の場所に見出してしまってるが、ここはスルーだ。
あれが事実ではない。
それを神崎の口から確認出来たのならば、俺がすることはただ一つ。
「……ごめん、神崎。俺が真っ先に信じてやらなきゃなのに、それが出来なかった」
膝の上の拳に力を入れながら、頭を下げる。
わなわなと小刻みに揺れるそれはきっと、自分の不甲斐なさに対しての悔しさだ。
すると突然、白い手が視界に入り込んだかと思うと優しく俺の手を包み込む。
伝わってくる暖かさは安らぎを与えてくれる。
「それでも篠宮はここにいてくれてる。私はそれだけで充分。信じてくれてありがとね、篠宮」
「神崎……。一つ、聞いてもいいか?」
ゆっくりと顔をあげると、視線が交錯する。
相変わらず黒い瞳はこちらを吸い込んで来そうだが、奥底までは見通せない。
神崎は軽く微笑むと頷きを返してくれた。
「あれ、いつからだ?」
「……ゴールデンウィークの二日目」
「なんで、言ってくれなかったんだ?」
「……」
いまさっき見せた微笑みは嘘のように、視線を落として黙り込む神崎。
家に帰る途中、何度も見返したから鮮明に覚えている。
あのような内容の投稿が始まったのは、確かにゴールデンウィーク二日目──おとといだ。
一見スパンが短いため、どうしようもないと思うだろうが、その日の夜も前日と同様に電話をしていたし、次の日にはデートもしている。
相談出来る時間ならいくらでもあったはずだ。
……まあ、可能性があるとすれば──。
「……もしかして、俺が頼りなかったから?」
「ち、違うよ。……心配かけたくなかっただけ」
密かに心配していたことは否定され、懸命に紡がれた言葉。
理解は出来なくもない。というか出来る。
よくよく考えれば、俺だってこんなことがあれば、神崎に話すことを躊躇してしまう。
それでも、許容は出来ない。
なぜならそれ──ひとりで背負うことは間違っていないが正しくはない、そう教えてくれたのは他でもない神崎なのだから。
「……頼って欲しい。俺も神崎の力になりたいから」
心からの本音。
そこに必死さはあれど、照れや羞恥心は含まれていない。
「だからまずは、クラスの誤解を解こう。手伝わせてくれ」
頭を再び下げる。
神崎だって、自分の誤った情報が流れているこの状況を疎ましく思っているはず。
だから何も問題ない提案だと思っていた。
「──別にいいよ。解かなくても」
「え……神崎?」
無感情で発せられた言葉に、思考が止まる。
いつの間にか二人して、再び顔を上げていた。
「私、篠宮にだけわかって貰えてたらそれでいい。……というか無視されてる状況なら、隠れなくても二人で色々出来るじゃん!」
どうやら神崎は周りをしがらみとして捉えた上で、それがなくなったと思っているらしい。
今の言葉は、正直嬉しかった。
先程付き合っていることを金髪に否定したばかりだが、神崎が望むなら公然と付き合ってもいいのだろう。
──しかし。
それが神崎の本心でないなら、話は別だ。
「……クラスのみんなと話したいんだろ?無視されるのが──」
「違う!……ほんとに、違うの」
くぐもった声。
その肩は不安を表すかのように少し揺れている。
「じゃあ作り笑い、やめてくれ。……無理しなくていいんだ」
突然ビクリと神崎の肩が跳ね上がった。
さっきまで被っていた仮面は、見事に崩壊していてどこか苦しそうな顔が表れた。
口上では明るく振舞っていたが、それは神崎お得意のただの強がりだ。
「だいたい、熱の原因だって周りからの態度が変わった事のストレスだろ?」
神崎にいくら適応能力があったとしても、さすがに対極的な状況には対応出来なかったのだろう。
「──なんで」
「……ん?」
「なんで!……私は誰といるよりも、篠宮といる時間が好き!好きなの!好きな……はずなのに……篠宮、私おかしいの。心のどこかで……クラスのみんなと……また仲良くなりたいって望んでる」
「別に、おかしくないだろ。大丈夫だ」
きっと神崎は自分自身を許していない。
クラスのみんなを取る事で、俺を本当に裏切ってしまうと思ってしまっている。
自惚れながらも、そう確信した。
「ごめんね……。私、やっぱり勇気なんてなかった。ほんとに……ごめんなさ──」
無我夢中で神崎の上半身に抱きついた。
発熱のせいか、体温の主張が激しい。
「自分を責めるな。何も、間違ってないし、謝る意味なんてない」
「でも、私……」
「神崎の勇気だけが、問題じゃないんだ」
なんだよ、
こんなことまで、一人で背負って、抱え込んでたのかよ……。
ほんの少し生じた怒りを言葉に乗せる。
「俺だって、もっとみんなと積極的に関わっていれば、神崎と隠れて付き合う必要なんてなかった」
……違うな。
これは俺自身への怒りだ。
何も気づかなかった。何も行動を起こそうとしなかった俺自身への。
ブーメランのように戻ってきたその感情を、胸の内に押し込んだ。
「そんなこと、ないよ。篠宮が無理する必要なんて昔も、今もないの」
「──だったら、神崎も同じだ。わざわざ出来ないとわかってることを出来るって意地を張る必要なんて、ないんだ」
「……っ!」
腕に力を込める。
乱れた息遣いが耳をくすぐるのに耐えながら。
「それに、勇気が出せない一面も神崎であることは変わらない。そこも……好きだ」
「……馬鹿。耳元で……言うな」
力なく呟くも、神崎は無理に俺の腕を解こうとはしない。
「クラスの誤解解くの、手伝っていいか?」
微かな頷きが肩に伝わって来た。
鼻をくすぐり続けていた雑炊の出汁の匂いは、気づけば甘いものに変わっていた。
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