第2話 遠くて近い存在
通常の休み時間より、多く取られた昼休みもあと十五分となった。
文化部とはいえ、食べ盛りである男子高校生の俺は当然のこと、華奢な体の神崎も昼食を既に済ましている。
それにしても、今日はやけに短いな……。
いつもは三十分くらい余裕があって、ゆっくり出来るのに。
──あ、俺が遅刻したからですね。
そんな俺の胸中など露知らず、室内の時計は規則的なリズムで時を継いでいく。
それに従うように、右肩に乗るものがこくりこくりと揺れている。
「眠いのか?」
「……全然」
俺の言葉にまるで突然耳を立たせる猫のように、ピクっと反応した神崎だったが、平静を保った表情で言葉を返して来た。
素直じゃないところも猫そっくり。
「五時間目は国語だぞ」
「うわあ……それはキツいかも」
「だよなあ……」
二重になったため息が、部屋を覆った。
次の時間を思い浮かべ、憂鬱になることなどよくあることだろう。
どうやら優秀な神崎もその例に漏れないらしい。
まあ、国語だからしょうがないね。
授業の導入で音読なんかがあった場合は、教室が死屍累々としてしまう。
それに加えて五時間目とか、もう睡眠以外何をしろというのか。
「篠宮はさっき寝たから、大丈夫でしょ?」
「ごもっとも。神崎は寝なくていいのか?今なら特製枕付きだけど」
「それ、今も使ってる。でも……念の為に寝ておこうかな」
「やっと素直になった」
「何か言った?」
「なんにも」
止まることを知らない時計の針は、予鈴十分前を指しているが問題ないだろう。
授業にさえ出席すれば、お咎めは無いはず。
それに一秒でも多く寝ておけば、損がないのが俺達人間だ。
ほんとよく出来てる。ご先祖さまに感謝しなきゃ。
「じゃあ寝るから。ちゃんと起こしてよ?」
「わかってる。ちゃんと枕兼目覚まし時計の役割も果たしますよ」
「──それと。寝てる最中に変なことしないでよ?」
「変なことって?」
「……知らない」
いじけた様子で目を閉じる神崎。
その頬は若干だが、朱色に染まっている。
そして気づけば、静かな息遣いが耳を満たしていた。
「寝入り良すぎだろ……」
驚く程の速さで眠りについた神崎。
やはりこのご時世、誰であれ疲れは溜まるらしい。
ストレス社会とか、的を得すぎていて困る。
流行語でいいでしょ、これ。
だがそんなことをかき消すほどに、神崎の顔は安らかで目を奪われる。
「……何も出来ないのが、とことん辛い」
『触りたい』といった欲望が、当たり前のように胸に込み上げてくる。
それらと必死に格闘しながら、悶々とした残りの五分を過ごした俺だった。
*
放課後を迎えた俺は、昼休みと同様に文芸部にいた。
いくらどこぞの新入部員さんが休みとはいえ、俺が勝手に部活動を休む訳にはいかないのだ。
……まあ、ただ単にこの部屋が好きってだけで、別に帰っても問題ないんだけどね。
暖房により暖められた室内で本を開く。
外からは、運動部の生徒による喧騒が窓を叩いて来るがそんなものは気にならない。
静かな時間がゆっくりと流れていくのを、肌で感じる。
それに対して焦らせるものも、止まらせるものもない。
そんな教室とはまるで正反対のようなこの場所が、俺は好きなのだ。
この雰囲気に浸っていると突然、正面のドアがトントンとノックされ、音を鳴らす。
残念ながらというか、我が文芸部はお悩み相談といったサービスなどは行っていない。
よってドアを叩くのは、必然的に入部希望者となる。
……姫島目当てでの入部なら、追い返すか。
先程の野次馬共を思い出す。
俺はこの時間の価値がわかる人しか、入部させたくないのだ。
それが部長の矜恃。
もはやプロフェッショナルである。
軽めの決心をして、ドアに向かう。
「……はーい」
「──痛っ」
「え、あ、すいません。まさかこんなにドアの近くにいるなんて思わなくて」
ドアを開けた俺の目の前には、長い黒髪を持つ女子生徒が、頭を押さえて座り込んでいる。
ゴンッとか言ったけど、大丈夫かな?
そんな俺の心配を裏切るように、女子生徒はさっと立ち上がった。
その目には、小粒の涙が浮かんでいて口は横に引き結ばれている。
簡単に言い表すならば、子供の痩せ我慢。
あ、これ無理して立ったやつだ。
「──って波盾会長じゃないですか」
上げられた顔には見覚えがあった。
俺よりひとつ上の三年生で、生徒会長。
入学式で壇上にあがっていたのが記憶に新しい。
校内に
一言で言えば、三年生版神崎(一部上位互換)。
何このハイスペック。
うちの学校、無駄に女子生徒のクオリティが高い。
俺みたいな男子で均衡を保ってる?やかましいわ。
「私の事知ってるの?」
頭を押さえながら、上目遣いで問うてくる会長。
その瞳は純粋に驚きが混じっているようで、やや大きく見開かれている。
……それでもまだ痛いんですね。
「そりゃあ有名人ですから」
「ふーん……ってそれより!なんで
「あー、それは俺も不思議なんですよね」
入部当初、俺も何度引っかかったことか。
いっその事、『押』とか『引』のシール貼った方がいいんじゃないかと思ってしまう。
ていうか、なんで大体の教室のドアが引き戸なのに、ここだけ開き戸なんだよ。
学校サイドからの明確なイジメですよね?
「そもそも、なんで待ってたんですか?すぐに入っても良かったのに……」
「返事がないのに、勝手に入るわけには行かないじゃない」
俺の質問は、まるで『常識でしょ』といった風に、一蹴されてしまった。
……確かに。面接でそれやったら、即座に帰されそう。
でも肝座ってるからってことで、ワンチャン……はないか。
「……なるほど。つまり返事をしなかった俺が悪いと?」
「明言はしてないわ」
「……それ明言してるのと大差ないんだよなあ」
ため息混じりにそう呟いた。
日本語って難しいよね!
「今更だけど、篠宮くん?」
「はい。……なんの御用ですか?お茶でも飲みに来ました?」
「そうね……話したいことがあるんだけど、せっかくだし一杯頂くわ。私、紅茶好きなの」
「え……」
気の抜けた声を発した俺に訝しむような視線が注がれる。
「……何よ?」
「いえ、なんでもないです」
不満げな表情を浮かべる会長から慌てて目を逸らした。
そして特徴的な髪をなびかせ、室内に入っていく会長のあとをゆっくりとついて行く。
心臓はその歩みとは裏腹に速く鼓動している。
……やばい。紅茶セットはあるけど、あれは神崎が気を利かせて持ち込んできたもの。
俺自身、いれたことはないのだ。
*
ティーカップを慎重に運ぶ。
こちらもまた神崎の持ち込み品だが、馬子にも衣装。
紙コップで出すよりはマシだ。
……ていうか、
いつの間に侵食が進んでいたんだ……。
「……粗茶ですが、どうぞ」
「ありがとう」
笑顔で紅茶を受け取る会長とは対照的に、俺の顔は引きつっているだろう。
何しろ社交辞令とかではなく、正真正銘の粗茶なのだから。
いや、茶葉は立派だよ?でもほら、いれ手が……ね。
「……それで話って?」
向かい側に腰を下ろしながら尋ねる。
しかし意識は、どちらかというとティーカップにある。
「そうね。──篠宮くん。この文芸部の今の部員は何名かしら?」
声のトーンが落ち着き、真剣味を増した。
緩んだ空気がピリッと張り詰めていくのを肌で感じる。
「一応、二人です」
「……あとの一人は?」
「お腹痛いとか言って帰りました。でもサボりでは無いはずです。多分」
捲し立てるように言葉をズラズラと並べていく。
もちろん内容は嘘。姫島が今どこにいるなど俺にはわからない。
……いつかなんか奢ってもらおう。
「そう。──それで篠宮くん」
「……はい」
間が空いて、再び名前が呼ばれる。
重苦しくなっていく空気に耐えながら、返事をした。
なんでドラマの終盤みたいな雰囲気なの?
刑事ドラマだったら、犯人判明しちゃってるよ。
「この学校の部活動に関する規定はご存知かしら?」
「……さ、さあ?」
こちらをまるで射抜かんとするような目から必死に逃げるべく、辺りに視線を撒き散らす。
規定なんて言っているが、ほとんどが運動部だけに当てはまる内容ばかりだ。
文化部と共通するものなど数える程しかなく、休み時間にでも読んでいれば覚えられてしまう。
──それ故に会長が何を言わんとしているのかもわかってしまった。
「その様子だと、わかってるわね」
こんなことでシンクロしたくなかった……。
視線をゆっくりと前方に戻しつつ、ある決意をした。
これをする以上、後には戻れない……それでも、俺は!
「せ、せっかくいれたんだし、飲んでくださいよ。さ、冷めちゃいますし……」
紅茶──間違えた。粗茶に目を向けつつ、軽く微笑む。
思案するような顔をしていた会長だったが、一つ力を抜くようにため息をつくとカップを握る。
流石は紅茶好きを名乗るまである。
所作の一つ一つが美しい。
しかし、今の俺にはそれに見とれるほどの余裕などなかった。
「じゃあ、いただくわ。……香りは弱いのね」
「そ、そういうやつなんですよ!」
必死に頷きつつ、紅茶を口に運ぶのを促す。
不味いものを口にすれば、今まで考えていたことなど忘れてしまうだろう。
これで……話を変える!
「──ん、美味しいじゃない。香りがあまりしないから心配だったけど、杞憂だったわ」
「……は?」
俺の予想していたものとは違う反応を見せながら、堪能するように飲み続ける会長。
……どうして、こうなった?もしかして、これが……センス?
机に両肘をついて頭を抱えていると、カチャリとカップがソーサーに置かれた。
「でも香りがないのはやっぱり物足りないわね。私が今度、教えてあげるわ」
微笑みを湛える会長に眩しさを感じて、言葉を失う。
きっと頬の熱さは暖房が直接当たったからだろう。
「機会があれば……お願いします」
「任せなさい」
横目で、再び紅茶を飲み始める会長を見つめる。
噂だけで聞く存在だった人が、目の前にいるのは不思議な感覚だった。
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