第12話 二人きりの勉強会
どこかそわそわしている心を封じ込めて、手元の本に集中する。
そして次のページを丁寧にめくっていたその時。
──ピンポーン。
無機質なチャイムが俺の耳に届いた。
パタンと本を閉じるとソファから立ち上がり、玄関に向かう。
わざわざ誰が来たのかを確認する必要はないだろう。
……大方予想がついているから。
「こんにちは!」
「ん……上がっていいぞ」
「はーい。お邪魔します」
ドアを開けた先にいたのは俺の彼女の神崎琴音。
元気な挨拶とともに我が家の敷居を跨ぐ。
その姿からは、先日のような緊張感を感じさせない。
……ほんとに適応力高いな。
アマゾンとかでも普通に生きていけるんじゃないの?
「……そういえば、今日美玖居ないから」
「えっ、なんで?」
神崎の靴を脱ぐ手が止まり、顔が上がる。
「友達の家でお泊まり会だと」
日曜の朝という、ほとんどの人類が寝床で至福の時間を過ごしている時に叩き起されたのでよく記憶に残っている。
……まさか枕を引き抜かれるとは思わなかったよ。
おかげで首が痛い。
次の日に学校があるにも関わらず、お泊まり会とは何事かと思ったが、話を聞けば、勉強会を兼ねての実施で学校もその友達の家から登校するらしい。
……最近の子ってこんなこと毎回してるの?
俺じゃあ追いつけない域だよ、それは。
「なーんだ、じゃあ今日は会えないのかー」
「その割にはあんまり悲しくなさそうだけど」
「まあね」
おっと、これはもしや二人の関係が崩壊する前兆か?
あんなに仲良くしてたのに……。
やはり友情とは脆いものなのですね……。
一人でうんうんと納得していると、靴を脱ぎ終わったらしい神崎がリビングに向かいつつ振り返る。
「そういうことなら、どうしようもないからねー。あと──篠宮と二人きりも嬉しいから」
屈託のない笑顔でそう告げた神崎は眩しくて、思わず目を逸らす。
……よくもまあ、こんな恥ずかしいことをペラペラと。
ドアの開閉音が鼓膜を揺らす。
どうやら玄関で立ち尽くす俺を置いて、神崎はリビングに入室してしまったらしい。
視線を外していたため、神崎がどんな顔をしていたのかはわからないが、どうせ戸惑う俺を見て笑っていたに違いない。
*
あれから何分経ったのだろうか。
教科書に向けている意識を一瞬でも外せば、秒針の音が耳に流れ込んでくる。
「ここはこの公式をあてはめて……」
「なるほど。……こうか?」
「うん──全然違う」
「まじか……」
神崎の無慈悲な言葉に、今までの疲れがどっと溢れ机に突っ伏す。
首だけを懸命に動かして外を眺めるが、既に日は暮れている。
シャーペンを握り続けていた右手は、もうこれ以上働きたくないと訴えるように、力を入れさせてくれない。
「うーん。やっぱり数学が鬼門か……」
その一方で顎に赤ペンを当てながら、考え込む仕草を見せる神崎。
その表情は冗談抜きに深刻な面持ちのため、思わず小さなだが、声をあげる。
「……そんなにやばい?」
それに対する頷きは重々しい。
「むしろ、今までよく赤点回避出来てたよねって感じ」
「ぐ……」
「これなら、美玖ちゃんの方ができてるよ?」
「……まあ、それはそうだろうな」
どちらも教えたことのある神崎が言う通り、美玖は俺の妹ながら、学年で見た時中の上に入るぐらいの成績であり、優秀といっても差し支えない部類だろう。
それに加えて人気者。
……ほんとに兄妹なのか、自分ですらよく疑ってしまう。
「……もう、そんな顔しないの!」
「えっ、どんな顔」
「暗い顔だよ。暗い顔! はあ……出来るまでちゃんと教えてあげるから大丈夫」
不意に頭に感触が加わる。
柔らかくすべすべしていて、何か包容力を感じさせるそれは神崎の手で、未だ机に突っ伏したままの俺の頭を優しく撫でてくれている。
それが気持ちよくて、気を抜くと睡魔に意識を連れ去られてしまいそうだ。
「幸いほかの教科は何とかなりそうだし。……覚悟してね、しっかりマンツーマンで最後まで見てあげるから。目標兼ご褒美圏内は五教科合計で三百二十点!」
「……いいのか?」
迷惑を掛けている、もとい掛けることに申し訳なさを感じ控えめに視線だけで問う。
「だって彼女だしね。彼氏の面倒はちゃんと見てあげないと。──それに私はこんなことで順位落とさないから」
神崎は得意げににっこりと微笑んだ。
その自信に満ちた表情と言葉に、かっこいいとすら思ってしまう。
……そういえば、こんなやつだった。──俺の彼女は。
可愛らしい女の子の一面を持ちつつも、ときに弱音を吐いて、たまにこんな凛々しさを見せてくる。
神崎琴音は、そんな魅力的な女の子なのだ。
「……じゃあ俺もお願いごと決めておこうかな」
「うん、その意気だよ。……じゃあご飯作るね」
「……もう少しだけ」
気づけばもう思っていたことを呟いていて。
それに遅れて、恥ずかしさが内から込み上げてくるが、今更後には退けない。
温度が上昇する頬を誤魔化すために、更に木製の机に顔を押し付ける。
「……だめ──って言いたいけど、頑張ったし少しだけね」
頭の感触はそのまま、神崎の呟きは耳にじんわりと広がっていく。
「そういえば、晩御飯何がいい?」
「作って……くれるのか?」
「そりゃあもちろん。飢え死にさせる訳には行かないでしょ」
ぼんやりとした視界に、何故か得意げな顔を浮かべる神崎が映る。
「……それは大袈裟。でも、そうだな……正直神崎が作ってくれるのならなんでもいい」
「まだカレーしか食べたことないのに、何言ってんだか。──でも、嬉しい。ありがと篠宮」
神崎の弾んだ声を聞き入れたのを最後に、俺の意識は睡魔に持ってかれてしまった。
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