第36話 等価交換
予報通りの雨のアスファルトを軽快に叩く音が、校内に重々しく響いている。
直に激しくなると予想し、早めに部活を切り上げたのはいい判断だったのかもしれない。
意外と俺、部長の素質あったりする?
悪天候とは裏腹に、能天気なことを考えながらも先程職員室から借りてきた傘を片手に足を着実に下駄箱に運んでいく。
担任の先生との話が長引いてしまったため、部室を出てから既に十分は経過しているだろう。
「──あ、来た」
「激しくなるから、先に帰っておけって言ったのに……」
下駄箱に着いた俺を待ち構えていたのは、先程後輩の姫島と共に、先に帰らせたはずの神崎だった。
手元で光を放つ携帯からは目を外し、こちらを向いている。
「篠宮の傘に入れてもらおうと思って待ってたの」
「なんだ、お前も傘忘れたのか。待っててやるから、職員室で借りてこい」
「ううん。別に忘れてないよ」
神崎は足元においてあったカバンから折りたたみ傘を取り出し、こちらに見せてくる。そして何故かそれを再びカバンに戻した。雨が止む気配はない。
「……どういうこと?」
「こういうことだよ」
「…………だから、どういうこと?」
両手を広げ手ぶらであることをアピールしている神崎だが、その意図は残念ながら俺には読み取ることが出来ない。そもそも、どうして傘があるのに帰らなかったのかがわからない。
まあ、天才の考えなんて常人には理解できないって言うし、気にしなくていいか。
頭の中にかかった霧を晴らして、靴を履き替える。
そこで重いため息が聞こえたので顔を上げると、呆れたといった様子で広げた両手はそのままに首を横に振る神崎が目に映った。
……アメリカ人なのかな?
「ほんと、普段は何かと鋭いくせにこういう時になると鈍いんだから。……彼女が彼氏に傘に入れて欲しいなんて、もう相合傘しかないでしょ」
若干頬を赤く染めながらも俺を窘めるように口を開いた神崎。
いつの間にか距離も縮まっていて、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……したいのか、相合傘」
察しは最後までつかなかったが、別にその単語がわからなかった訳では無い。言われればピンと来るし、情景を頭に思い描くことも出来る。
慎重な俺の問いかけに、小さな頷きが返ってくる。
しんと静まり返った下駄箱には、二人分の息遣い──きっと足音の到来と共に消えてしまう小さな音だけが存在した。
「わかった。そういうことなら、ほら。早く帰るぞ」
昇降口に出て傘を開く。
コンビニにでも売っていそうなビニール傘だが、二人ぐらいなら問題なく入れそうだ。
小走りで神崎が隣に寄ってきたのを確認して、ゆっくりと歩き出す。
普段聞こえる運動部の掛け声はなく、その代わりの音は心無しか激しさを増していた。
「一応言っておくけど、一位おめでとう」
「ありがと。篠宮に言われると、素直に嬉しい。ていうか篠宮も良かったじゃん。赤点の教科、一個もなくて」
「……あ、ああ。そうだな」
こちらを見上げる神崎の言葉に相槌を打ちながらも、視線を明後日の方向に運ぶ。
今頭の中を満たしているのは、先程職員室でした担任との会話。
どうやら数学に採点ミスがあったらしく、配られた結果よりも低くなってしまうらしい。
一応全員が対象になるため、順位などは変わることはないが赤点のボーダーまでもが下がる訳では無い。
要するに、先程訪れた職員室で俺の追試が確定してしまったわけだ。
それも神崎が一番力を入れて指導してくれた数学ということもあって、気まずさと罪悪感が同時に押し寄せる。
「──そ、そう言えば、お前最近わがままになってきたんだってな」
新たに浮かんだ話題に縋り付くように強引に話を変えた。
「もっと言い方あるでしょ!……間違ってはないけどさ……」
「いや、別に悪い意味じゃないんだ。神崎はわがままくらいがちょうどいい。えーっと……凛……さんも言ってたぞ。今の方が安心出来るって」
呼び捨ては怒られる気がしたので、さん付けで。
親しき仲にも礼儀ありだからね。
……全く持って親しくないけど。
まさかあの時の会話が役にたつとは思わなかった。
「──待って。今、凛のこと名前で呼んだ?」
隣から聞こえてきた声にはトゲが含まれている。
「仕方ないだろ、苗字わかんないだから」
二年生に進級──新しいクラスになって一ヶ月と少し。
俺自身、そこまで人の名前を覚えようと意欲的では無いため、この時期に初対面の生徒の名前を覚えていることは少ない。
きっとそのやる気のなさが伝わっているのだからボッチなのだろうが。
「じゃあなんで名前はわかるの?」
「神崎がそう呼んでたから──っておいおいおい!急にスピードをあげるな。傘差してんのは俺なんだぞ?」
突如足取りを速くした神崎の隣に急いで並ぶと傘を被せた。
その速度は変わりそうにないが、歩幅は俺の方が大きいため正直緩急がなければどうってことは無い。
裏門を出て少し。
流石に疲れが出てきたのか、徐々に神崎のスピードが落ちていく。
「……私も名前、呼ばれたい」
ぽつりと、まるで雨のように呟かれた言葉は確かな願望で、それも俺次第で叶えられるものだった。
正直神崎のことを琴音と呼びたいと思うことは多々あったが、その度に恥ずかしさが上回り神崎を、自分を誤魔化していた。
でも今回は。今回こそは。
軽く拳を握る。
男を見せる時が来たようだ。
「じゃあ、あいつの苗字を教えてくれ……琴音」
「……」
「あ、あれ?反応なし?……お、おい琴音」
「……やばい。凄い嬉しい。死ぬ」
「……死ぬのは語彙力だけにしてくれ。俺が困る」
これが学年一位とか、一体誰が信じるのだろうか。少なくとも俺は疑う。
というか俺も恥ずかしすぎて死にそうなんだけど。
「ねえ、これからもそうやって呼んで!」
「別にいいけど……その場合、そっちも名前で呼べよ。不公平だからな」
俗に言う等価交換だ。
「わかってるわかってる。そんなの楽勝だよ、誠……せい……せ──ごめん、やっぱ無理!」
「……じゃあこっちも無理だ。今回限定」
ふと気づけば傘を叩く雨の量は、予想を裏切り少なくなっていた。
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