番外編 パン屋にて
「夏美さん、いつものください」
先輩をパン屋の外で待たせて、私──姫島かぐやは慣れ親しんだ店員さんの名前を呼んだ。
「はーい、ちょっと待ってねー」
レジの奥から声がしたと思うと、手に食パンを二袋携えた女性がこちらに寄ってくる。
彼女の名前は麦田夏美。
近くの大学に通う三年生であり、私……というかあのカフェがお世話になっているこのパン屋の店員さん。
──そして私の年の離れた数少ない友人だ。
「はい、いつもの。サンドイッチ用の食パン」
「毎回ありがとうございます」
「こちらこそ、当店を贔屓していただきありがとございます」
そしてお互いお辞儀で下げていた頭を上げてにこりと笑い合う。
それに合わせて、丁寧に結われたポニーテールが私の目の前で踊る。
「それよりも、あの男の子誰?」
夏美さんの首の動きに合わせて、後ろを振り向く。
そこには、店の近くに展開されている乳製品を眺める先輩が居た。
その目は興味深いものを見たとばかりに輝いている。
……チーズ、好きなのかな?
「学校の先輩で、同じバイトです」
視線を元に戻しつつ、手短にそう答える。
このご時世、個人情報の秘匿は大事なのだ。
……といってもあとは名前と所属クラスしか知らないから、関係ないんだけどね。
薄い溜息が意図せず漏れ出す。
「ふーん……付き合ってるの?」
「な、ち、ちがいます!」
目を細め、からかうような態度をとる夏美さんに対して、身をレジに乗り出して、必死に否定する。
普段は優しくてノリのいいお姉さんなんだけど、こういう話題になると……ね。
頬が、体がとても熱い。
思わず顔を伏せるが、それが裏目に出た。
ここぞとばかりに夏美さんは言葉を並べる。
まるで弱り出した獲物にトドメをさすように。
「えー、でもここに来るまでのやり取りカップルみたいだったじゃん」
「見てたんですか……。あ、あれはどこにでもいる先輩と後輩の距離感です!」
語気を強めるが、本質的に弱々しい私の否定の言葉は、波に乗っているであろう夏美さんには届かない。
「いいや、あれはカップルだった。──というかむしろ夫婦に近かった気がするよ」
「…………夫婦」
夏美さんの紡いだある単語に、頭の回転が止まり思考することが困難になる。
それでも耳はまだ働いていて、次々と夏美さんの声が無遠慮に入ってくる。
「談笑しながら、売り場をどんどん通り過ぎていくところとか、特にね。もう周りが見えてないというか──」
「お、お釣りは結構です!また今度!」
「えー……うん、まあ、今回はこんな所でいっか」
話の途中にも関わらず、私はカルトンにお金を乱雑に置くと、すぐに身を翻す。
未だ頬が熱く、恥ずかしさを隠しきれていないけど、不幸中の幸いか。
ほかの客はここには見当たらないし、先輩もこちらで行われていたやり取りを訝しんでいた様子はない。
きっとバレていないだろう。
「よし、じゃああとは具材の会計……ってどうした?」
ほっと息をついたのも束の間。
ふと視線を上げた先には先輩が居て、さっと再び視線を落とす。
まだあの単語が余韻として耳の奥深くで響く中、先輩の声がまるで上書きするように鼓膜を揺らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます