第36譚 人形師は如何にして片割となったのか

「いつからだったか。兄さんが仕事の間に人形を創作するようになったんだ」


 記憶にはもやが掛かっていて、明確な焦点は結ばなかった。


「当初はただの綺麗な人形だったけれど、記憶が正しければ、それなりの値段で引き取って貰えたはずだ。呼吸をする人形が完成した時は、正直信じられなかった。けれど僕はまだ五歳程度だったから、兄さんが魔法だよと言えば、それで納得したよ。後になって尋ねても、兄さんは答えてはくれなかった。人形がどうやって創作されていたのかは僕には解らない」


 創作する術を教えたら、弟が実践するのではないか。

 実兄は、そう危惧していたのではないだろうか。寿命を縮めて、無機物に命の一部を宿す術だ。最愛の肉親には決して伝授したくないに違いない。あるいは他の誰かであれば、実兄はその術を教授したのだろうか。


「物心ついた頃から生き抜くことしか考えていなかった。生きる為ならば、どんなことでもしようと。兄さんは誰かの孤独を癒す人形になればいい、誰かの幸せに寄り添う人形になればいいと語り、そうなることを信じていたが、僕は当時から信じてなんていなかったよ。人間の善意を信じられなかった。無論例外的に善意を持つ人間はいるのだろうが、そうした人間に人形が行き着く可能性は低いだろうと考えていたんだ」


 群青の双眸ひとみが、暗さを増す。


「それからちょっとして、人形販売の収入額が主流にしていた仕事の賃金を超えたんだ。兄さんは仕事を辞めて、人形創作に没頭するようになった。接客は僕がすると言ったら、兄さんは喜んでくれたよ。工房で――その頃は自室だったが、創作に専念できると」


 レムノリアは黙って耳を傾けていたが、ここで疑問を投げかけた。


「接客、ですか? ですがご主人さまはまだ幼かったのでは」


「兄さんは、善意しか信じていなかった。悪質な客や物騒な客が訪れるなんて、想像すらしていない。だから五歳児に接客をさせることにもためらいはなかったんだ。もっとも実際には、人形を購入しにくる訪客は優しそうな人間ばかりではなかった。けれど僕はそんな相手にも人形を引き渡したんだ。兄さんは客を選ぶことはしたくないと言い、僕も人形を売りさばくことしか考えていなかった。生きる為には、金が必要だったんだよ」


 吐き捨てるように乾いたため息をついた。


「両親が生きる為に僕らを棄てたのならば、僕も生きる為に人形を売り渡そうと」


 やられたことをやり返すだけだ。


 そんな幼すぎる思考が、いくつの残酷な運命を廻したのか。

 後悔などしても贖罪しょくざいの一端も担えない。誰かが赦してくれたとしても、みずからであがなえなければ意味がなかった。


「わずかに痛む良心を紛らわす為に契約書に著名させて。契約書には様々な条項を書き添えた。人形をこう扱ってはいけない、人形にこういうことをさせてはならない。僕はちゃんと伝えたんだ、と誰にともなく訴えたかったんだよ。子供の言い訳だ。全く以て愚かだったが」


 懐から一枚の羊皮紙を取りだす。


「いまとなっては役に立っているよ」


 契約書には【ユリウス=ホローポ】との著名がされていた。決して破られることがなかった条項が何行にも渡って書き記されている。もっとも契約を破らずに済むかどうか。暴走した人形を止められるかはキョウの肩に掛かっていた。

 けれど今晩くらいは取りあえず、感傷に浸る程度の猶予があるはずだ。


「それから幾年か経って、兄さんは徐々に痩せ細ってきた。食事は取っているのに、身にならない。睡眠を取ってもくまが濃くなるばかりで疲れが癒えていない。兄さんは大丈夫だと言っていたが、いつ倒れてもおかしくなかった。けれど人形の注文は増え続け、兄さんはそれを安値で引き受ける。人形の売値を上げないかと持ちかけたが」


 やるせなさそうに頬を持ち上げて、彼は肩を落とす。


「断られてしまったよ」


 優しい微笑みは未だ、網膜に焼きついて、離れてはくれなかった。


 太陽を振り仰いでしまったかのようだ。


 眩しかった。憧れていた。愛していた。

 それ故に危うさを感じ得ずにいられなかったのだ。

 そっと微笑んでいた紺碧の瞳には、一筋の影も差してはいなかった。どれほど疲れていても。どれほど傷ついていても。


 誰かが喜んでくれるならば、それでいいんだよ――と。

 行きすぎた献身けんしんは犠牲しか産みださない。


「彼は、三百二十四体の人形を創り」


 キョウが言葉を詰まらせる。知らずに声が震えていた。


 人形師は善意しか知らなかった。知ろうとしなかった。

 他者が喜ぶことを常に望んでいたが、他者が悲しむことを想像できなかった。実兄を失った弟がどれほど嘆くか。それすらかえりみられなかったのだ。


「人形を創り続けて……、……っ……」


 何とか語り続けようとしたが、喉からはうめき声しか紡げなかった。

 握り締めすぎた指はいつの間にか血が滞り、冷え切っていた。喉を押さえようとしたが、凍えた指はかんたんには解けない。格闘していると、急に抱き寄せられた。


「もう充分でございます。ご主人さま」


 レムノリアがぎゅっと、細い身体を抱き締めていた。

 キョウは目を見張ってから、途方に暮れたように視線を漂わす。子供のように。いや、実際に彼はまだ子供の域から脱してはいない。いくら成熟しているように見せかけていても、胸の内側にある柔らかなものは幼さを滲ませ、青く潤んでいるに違いなかった。

 キョウはなだらかな肩にあごを乗せて、身体から力を抜く。


「……工房で眠ってしまった兄さんを起こしにいったら、すでに息を引き取っていた。僕はどうすることもできなかった。もうやめようと言えば、よかった。もう充分だと引き留めれば、よかった。僕は、僕だけは兄さんの側にいたのに」


 だらりと弛緩した腕から包帯が垂れて、宙を漂った。

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