第50譚 棄てられても 壊されても

「キョウさまッ!」


 ぐっと、後ろに引き寄せられた。

 斧の射程距離から遠退とおのいて、キョウが重心を崩す。けれど細い腕に抱き留められ、倒れはしなかった。薄紫の髪が頬に触れ、キョウは複雑に表情を動かす。一瞬呆然としてから、困惑したように微笑みを浮かべて、あせりに眼球を剥く。


 プエッラは斧を振り下ろすことなく、通り抜けていった。


 彼女には始めから、キョウに危害を加える気などなかったのだ。

 熊をけしかけて、騎士を馬車から引き離した段階でうっすらとは分かっていた。あるいは都市に襲撃をかけてこなかった際に気づくべきだったか。薔薇の人形は、馬車に残された領主しか敵とは認識していないのだ。無差別に虐殺するほどには壊れきっていない。濁り果てた双眸ひとみの奥底にはまだ、彼女自身の優しくて穏やかな人格が残っていたのだ。

 されど、彼女が復讐に燃えているかぎり、事態は好転などしていない。


 凄まじい轟音が押し寄せた。絹を裂くような悲鳴がそれに重なる。

 プエッラが左側の車窓を蹴り破ったのだ。


 窓から馬車に侵入していく後ろ姿を見て、キョウが駆け寄っていく。馬車にたどり着いたキョウが見た光景は想像を絶するものだった。


 手斧を振り下ろした体勢で凍りつく薔薇の人形。怯える領主。

 両者の間には、しなやかな腕が立ち塞がっていた。


 いや、腕しかないのだ。

 立ち塞がるというのは正確ではない。

 けれど他にどう形容するべきか、分からなかった。


 五指ごしで座席を踏みしめた腕は、確かに領主を護るように立ち塞がっていた。すでに血液を損なっているのか、刃物が突き刺さっても出血はしない。

 創り物のように精巧なそれには見覚えがあった。


「ロサ――なの、か」


 覗き込んだキョウが、あ然と呼びかけた。

 頭部だけで生命維持できるのに、腕のみで活動できない理屈はない。あるいは停まったのではなく、壊れたが故に成し遂げられた奇跡なのだろうか。一種の暴走だとすれば、有り得ないことではない。けれど重要なことは複雑な仕組みなどではなかった。


 棄てられても、壊されても、蔑ろにされても。


 首だけになっても。

 腕だけになっても。


 彼女は。


「あ、あぁああぁ」


 プエッラが手斧を離す。いや、いやと首を真横に振るった。

 絶対的な献身に何かを垣間見たのだろうか。


 尽くすべき相手がいた幸福な日常か。むざと散らされた薔薇の死に際か。細やかな菓子にも微笑んでくれた最愛の面影か。

 彼が遺してくれた、たったひとつの願いか。


「彼はただ、幸せになってくれ、と願ったんだよ」


 キョウが喉を振りしぼって、告げた。


 盲目の騎士は、無邪気に微笑みを振りまく彼女を愛していたのだ。けれどそれは、彼女自身を愛する気持ちから分岐した表現のひとつにすぎない。

 微笑む彼女を愛していた。

 愛していたから微笑んでいて欲しかった。

 

 彼女にだけは、幸せになって欲しかった。


「い、やぁ」


 プエッラがキョウを押し退けて、馬車から飛び降りた。

 その場から走り去り、薔薇の人形は森に紛れてしまった。

 突き飛ばされたキョウは足場から落ちないようにするので精一杯だ。とてもではないが、引き留められない。体勢を整えながらレムノリアを振り返れば、彼女は指示を受けるまでもなく、走り始めていた。単独で追いかけるよりは、複数で追い込むべきだ。


 キョウが車輪の端に足を掛けたのが早いか。

 後ろから当惑に満ちた悲鳴が上がった。


「な、なんなのよ、これは……!」


 ウィタ=ラティウムは、動かなくなった腕を遠巻きに見つめていた。

 それが誰の腕なのか。何故に彼女を助けたのか。全くと言っていいほど理解が及んでいない様子だ。途方に暮れて腕を見つめる視線には、奇妙な幼さが滲んでいた。


「それくらい、自分自身で考えろ!」


 言い捨てて、キョウは一枚の羊皮紙ようひしを外套から取り出す。

 箇条のみが記された真新しい契約書を押しつけてから、キョウが森に踏み込んでいく。

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