第49譚 殺意の人形

 キョウはすかさず頭部をかばったので、大事には至らなかったが、身体に受けた衝撃は尋常ではなかった。天井に激突した背骨が軋む。肺が機能を果たさなくなり、舌が仰け反った。したたかにぶつけた腰からは、鈍い痛みが駆けあがっていく。


 どうやら馬車は、右転したようだ。

 右側。そうだ、右側には。


 赤い衣装が視界に飛び込んできた。


「――ッ――ウィタ!」


 ウィタ=ラティウムは右扉側に倒れ込んでいた。


 馬車が横転した際に身体は反転しており、下肢が窓際に乗り上げている。右側の窓硝子は強い衝撃により粉々に割れていた。剥き出しになった両脚には硝子の破片が突き刺さり、おびただしい量の鮮血に塗れている。見るからに重傷だが、頭部があちら側にあったら即死は免れなかったはずだ。

 運が良かったと言うべきか。


「……何が、起こった……の……?」

「人形が襲撃を掛けてきたかと」

「そう……」


 彼女は酷い怪我を負いながら、薄らと微笑んだ。


「捕獲しなさい、人形師さん」


 悠然と、命令を下す。


 恐るべき執念だ。我が身の安全より捕獲を優先させるのか。

 再びに違和感を覚えたが、気にかけているような暇はなかった。


「御無事ですか、キョウさま!」


 左側の扉を乱暴にこじ開けて、レムノリアが飛びこんできた。

 比較的軽傷であったキョウの姿を確認して、取りあえずは安堵したようだ。


「御者、騎士は生存しております。御者は意識を失っており、騎士は戦闘により全員が負傷しておりますが、命に別条はないかと」


 即急に報告を述べた。


「お前は取りあえず馬車から離れるな、領主の護衛を」

「ご主人さまはどうなさるのでございますか?」

「策があるんだ」


 キョウは天井部に当たる左側の扉から脱出を試みた。

 幸いなことに左側の窓は割れていない。蝶番ちょうつがいが壊れてしまっているようだが、すでに開かれていたので、身体を乗り上げればたやすく抜けだせた。馬車側面から路上までは距離があり、かんたんに着地できそうにはない。馬車の側面に靴底を乗せて、足を掛けられる場所はないかと探す。


 車輪を見れば、大きな斧が突き刺さっていた。横転したのはこれのせいか。

 回転が妨げられた車輪を足場にして着地。



 振り返ると、小さな人影があった。


 幼さを残した肢体したいに手斧。柔らかそうな頬は憎悪にこわばり、双眸ひとみからは凄まじい殺意を放っていた。幸せに満ちた微笑みの名残などすでに途絶えている。砂煙や血飛沫を受けてくすんだ髪だけは、未だに彼が愛した色彩を保っていた。


「プエッラ――もう停まれ、停まるんだ」


 キョウが眉根を寄せて、呼びかけた。


 彼女はゆっくりと、視線を持ち上げた。

 唇の端を戦慄かせながら、薔薇の人形が言葉を紡ぐ。


「……許さない、許さない……ゆる、さない……ゆるさな……ぃ」


 四肢を引きらす。

 嘔吐するように背骨を前のめりに畳んで、憎悪を吐き散らした。まき散らされた悪意からは、当然ながら酸の臭いなどしない。なのに腐ったような薔薇の臭いが、キョウの鼻孔を刺激したような気がするのは何故だろうか。


 ゆるゆると、手斧を振り上げて。

 砂利を蹴り飛ばすと、彼女は走り始めた。


「もういいんだ、お前が罪を犯す必要はどこにもないんだ。ユリウス=ホローポは復讐してくれだなんて頼んだか? 死の間際に彼が望んだことは異なる願いだったはずだ。忘れてしまったのか? 忘れてしまっていいのか?」


 どれだけ懸命に呼びかけても、壊れた人形には受け取ってもらえない。

 すでに彼女は憎悪以外の感情を凍結させているようだ。敵しか映らなくなった眸にはキョウなど映り込む余地はない。一晩滞在しただけの訪客など、きっと記憶の片隅にも残っていない。

 けれどいかなる状態に陥っても、人形には譲れないものがあるはずだ。


 プエッラが急接近。狂暴な銀光を睨みながら、キョウは退かない。飛びかかってきた人形の肢体を抱き留めるように両腕を広げて。

 斧が差し迫る。

 彼女をとめるのは無理かもしれないと、キョウが予感する。首を裂かれるか、頭蓋を割られるか、あるいは。だがそれでもいいと彼は覚悟して、声をあげ続けた。


「ユリウスは――」


 

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