第51譚 幸せにおなりなさい

 幸か不幸か。薔薇の人形は壊れきってはいなかった。

 壊れかけていたのだろうが、立ち直す程度には理性が残っていた。完璧に壊れていれば、彼女は苦悶する必要などなかったのだ。衝動や激情に委ねて、見境もなく暴れれば済む。劇場の人形のように悪意を持たず、殺意だけを振りかざして。


 そうならなかったことは救いであり、不幸だ――。


 薔薇の人形がいま抱えているであろう感情は、本来ならば人間しか持ちえない悪意の結晶であった。暴走やら崩壊やらと、どれだけ小難しい単語を並べても、究極的には悪意を持つとはそういうことだ。人間の想念に近づくということだ。

 けれど元来、人形の器とは悪意を注ぎ込めるようにはできていない。

 故に内側から拒絶反応が起こり、自壊するのだ。


 草を踏み散らす足跡だけを頼りにして、追いかけた。雑草を踏みしめて枝をかいくぐり、キョウは樹の根に足を取られながら森の奥地に進んでいく。動物の気配はすっかりと途絶えていた。熊や狼と遭遇する危険はなさそうだ。

 遠くからは絶えず、小枝を踏むような足音が響いてきていた。反響しているので距離が縮んでいるという実感は薄いが、遠ざかっている様子はなかった。

 だが、急にぱたりと足音が途切れた。

 キョウは一瞬、立ち止まりそうになるが、意識的に走り続けた。相手が移動しないのならば、この隙に距離を詰められるはずだ。足跡を標に進んでいくと、前触れもなく森が途絶えた。


「ここは一体――」


 午前の穏やかな陽射しが射し込むその場所には、野茨が咲き誇っていた。

 華やかな薔薇とは違い、質素でつつましやかな野茨の群。八重の白い花弁からは、黄色い雄蕊が覗いていた。花がそれぞれ、細やかなあかりを掲げているかのようだ。

 目を奪われて、キョウは呆然と立ち尽くす。

 導かれるように足を踏み入れた。

 茨には棘があるが、包帯を巻きつけているので、気にする必要はない。逆に茨を踏み散らさないよう、注意を払わねばならなかった。差し込む太陽の柱に触れて、キョウがわずかに緊張を緩めた。


 動物のものではない気配が空気を震わす。

 彼は可能なかぎり、穏やかに語り掛けた。


「いいんだよ、おいで」


 プエッラがふらりと、森の狭間から姿を表す。


 ぐしゃぐしゃに濡れた頬を見とめれば、なにも言葉は必要としなかった。

 どれほどに憎んだろうか。どれほどに悼んだだろうか。どれほどに悔やんだだろうか。どれほどに愛しただろうか。どれほどに壊れたかっただろうか。


「ごめんなさい、ごめん、なさい」

「謝る必要なんてないよ、プエッラ」

「でもきもち、わるくて。胸のあたりがきもちわるいものでいっぱいになって、どうしようもなくて、ああ、お客さんを傷つけてしまいましたよね? 首が、飛んで、あ、あぁ、それにあのきれいなお姉さんにも肩に怪我をさせてしまって」


 両腕を懸命に動かして、彼女は自身の身体をぎゅっと、抱き締めた。


「だんなさまはきっと、こんなプエッラは嫌いなのです」


 嗚咽おえつを押し殺して、彼女は途方に暮れていた。


「嫌いはしないさ」

「だってこんなによごれて」

「悲しみはするだろうけれど」


 ユリウス=ホローポは騎士だ。数多の民を救い、数多の敵を殺してきた。

 他者を殺すということがどれほど罪深いか。彼は誰より知り得ていたはずだ。時代や情勢により虐殺が正義になりかねないことを認めて、正道とまかり通っても罪は罪なのだと理解していた。故に彼は、最愛の人形が同様の十字架にかかることを是とはしない。


「彼は、君にだけは、ずっと微笑んでいて欲しかったんだ。ある種、傲慢な感情かも知れないが。人間とは……いや、男というものはそういうものなんだ。愛する相手にだけは、きたないものなんて知らずにいて欲しい。いつまでも清らかでいて欲しい。理想論にすぎないと解っていても、願わずにはいられないんだ」


 領地や主君、正義や矜持、愛や家族。

 そうしたものを護る為ならば、罪を犯すことさえいとわない。されど愛するものが奈落に落ちることは決して許せない。十字架の、端にすら触れさせたくなかった。罪の重責を背負わせるなどもってのほかだ。


「――幸せに、おなりなさい」


 人形は、柔らかな唇を震わせて、その遺言を紡ぐ。

 言葉にすれば、優しい調べが、胸に染み渡った。


「だんなさまがいないのに、どうやって」


 薔薇は傷ましく萎れて、首を落とす。

 茎から斬り離され、赤に塗りつぶされた憐れな薔薇一輪。

 薔薇本来の色が損なわれた頬にまた一筋、涙が流れていく。透明な雫は、彼女が護り通した純真の破片か。最愛の親を奪われ、惨劇に塗り潰され、憎悪というものを宿してしまった。

 けれど彼女は、誰も殺していない。

 やり直せるのだ。

 彼女が望むのならば。


「選択権は君にあるんだ。屋敷に戻って、薔薇園を育ててもいい」


 キョウが語りかけた。努めて、賑やかに。


「薔薇は好きなのでした」


 ぽつりと。

 朝露をはねるように囁く。


「お料理が好きなのでした。お掃除が好きなのでした。お裁縫が好きなのでした。けれどそれは、だんなさまが喜んでくれたからでした。屋敷に帰って庭を整えれば薔薇は綺麗に咲いてくれるでしょう。お料理を作れば、美味しいものが食卓に並ぶでしょう」


 緩やかに息を吸い込む。


「でもそこには、だんなさまはいない」


 泣きながら、彼女はやはり途方に暮れるのだ。


 どれほど豪華な料理が用意できても、美味しく食べてくれる相手がいなければ何の意味もない。どれほど美しい薔薇が咲き誇っていても、愛でてくれる相手がいなければ何の価値もない。どれほど綺麗に掃除されていても、誰も暮らさなければ何の意義もない。どれほど完璧な演奏でも、誰も聴いてくれなければ何の感動もない。

 それがいかほどの絶望か。


 どれほど献身的な人形でも。

 尽くすべき相手がいなければ、存在意義を持てないのだ。


「お願いが、あります」


 薔薇の人形は茨の絨毯じゅうたんひざまずく。


「どうか、プエッラを壊してくださいです」

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