第52譚 人形師は祈らない

 ああ、君はその願いを唱えるのか――。


 キョウは、嘆くように問い直す。


「それが君の幸せなのか」

「はい。それだけで救われます」


 迷いなく頷いてから、果敢なく微笑んだ。


 光の輪が亜麻色の髪を梳く。涙を繋げて結んだ冠のように薔薇が咲き誇り、人形は腕を伸ばしてきた。細くて短い子供の指は、料理を創る為にあったのだ。薔薇を育てる為にあったのだ。音楽を奏でる為にあったのだ。

 そうして総ては、最愛の父親の為に。


「また誰かを傷つけてしまわないうちに」


 悪意が次に逆流すれば、プエッラは二度と、自我を取り戻せない。いまも懸命に破壊衝動や復讐心を押さえつけているのか、肩が細かく震えていた。

 壊れかけの人形のように、とはもはや比喩ひゆにもならない。

 壊れかけているものほど傷ましいものはなかった。いっそのこと壊れきってしまえば、苦悩など抱かずに済むのに。


「だんなさまが停まってしまったのに」


 指を絡めて、人形は静かに瞼を重ねた。


「プエッラだけ停まれないなんて、いやだよ」


 悲しげに見つめていた群青の双眸ひとみが、戸惑いを断ちきった。


 救いなどは与えられない。壊れかけた人形の為に祈れる言葉も持っていない。

 神たる創造主人形師は息を引き取り、ここには片割れしか残っていなかった。けれど終わらせることくらいならば、片割れの人形師にも成し遂げられる。


「レムノリア――終わらせてやってくれ」


「御意にございます、ご主人さま」


 いつの間にか、後ろに寄り添っていた彼の人形が頭を垂れた。

 澱みなく凛と短剣を抜き放って、薔薇の人形を貫く。


 静かに、厳かに。


 額に埋め込まれた心臓を刺し破った。


 たった一撃。無駄な痛みは与えなかった。死の瀬戸際に苦を受けるには、彼女は悲しい時間を生きすぎた。愛するものを奪われ、壊れかけて彷徨い続けた三日間の、どれほど長いことか。


 一筋の赤い雫が流れていく。

 薔薇の冠が掛かった髪さえ濡らさずに、たらたらと。


 額を貫かれたプエッラは最期まで微笑みを崩さず。


「ありがとう、ござい、ます」


 透明な雫が霧散していく。

 薔薇の散りざまは果敢ない。それでいて、震えるほどに綺麗であった。

 倒れていく小さな肢体は茨の寝台に抱き留められた。白い花弁が散って、柔らかな髪を飾りつける。眠り姫のような無垢な微笑みを湛えて、薔薇の人形は停まった。

 安らかな最期とは言えず、けれど穏やかな終焉ではあったはずだと思いたい。


 人形に課せられた宿命は揺らがなかった。遺された人形は停まり、引き離された人形は狂い、棄てられた人形は必ず壊れるのだ。悪意を持たなかった人形師の、たった一度かぎりの復讐かと思えるほどに、彼女らの宿命は凄惨であった。

 けれど、違うのだ。善意しか知らない人形は、最期まで悪意を抱かずに潰えた。

 正義ではなくとも、それは。


 紛れもない慈悲だ――。


 人形師からの最期の贈り物だったに違いない。

 そうしてそれだけは、人形師の片割れに引き継がれた。


 救いではないけれど。

 こんなものが救いだなんて、みとめられないけれど。


 人形師は祈らない。


 キョウが右側の眸を覆った。指の間から染みだしてきた雫が腕を伝い、黄色い雌蕊を揺らす。細やかな花弁はそっと、熱い雫を受け取ってくれた。

 金が群青に移るまで、彼は祈りにすらなれない哀悼いたみを捧げた。

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