第24譚 斯くして薔薇は散り

 激しい戦闘の片隅では、瀕死の重傷を受けたユリウスが息を引き取ろうとしていた。プエッラがずっと呼びかけていたが、すでに喉がれて、悲鳴に変わりかけている。それでも諦めずに呼び続けたおかげか、ユリウスが奇跡的に意識を取り戻す。


「プエッ、ラ……そこにいるのかい?」


 皺だらけの喉が震えて、不明瞭な呻きが紡がれた。


 彼は、こんな声だっただろうか。

 他の誰かの声に聴こえるほど枯れ果てていた。

 病を患ってからは身体が痩せ細り、疲労を滲ませていたが、声には常に覇気はきがあったのだ。大樹から芽吹く若葉のひとつが声だったのに。いまや、冬の枝が折れるような響きしか紡げなかった。


 節くれだった指を握り締めて、プエッラが懸命に言葉を返す。


「はい、だんなさま。プエッラはここにいます」


 ぎゅっと指を絡めて。

 人形は心臓を持たない胸許むなもとに導く。


「そうか、側にいて、くれるのか」


 ユリウスは安堵したようだ。激痛に引きつっていた頬が緩められた。虚ろに生と死の狭間を漂いながら、盲目の騎士は柔らかく微笑んだ。諦観に安穏が織り込まれたような、幸福とも不幸ともつかない静かな笑いかただ。どこか果敢なくて、優しさに満ちていた。


「私は、これでいいんだ。これでいいんだよ」


 柔らかい頬に触れて、彼は囁きかけた。

 胸からは血が失われ続けていた。


「君は悲しまなくて、いいんだ」


 続けて喉から大量の血液が逆流して、ユリウスは幾度かせ込んだ。

 衣服を濡らす赤は、恐ろしいほど暗い。

 最愛の主が逝ってしまう。動かなくなってしまう――。言い知れぬ恐怖に支配されて、プエッラはただ嫌々と髪を振り乱す。稲妻の余韻を受けて、髪には薔薇の輪が掛かっていた。彼と彼女が愛した薔薇園の、穏やかな時間を象徴するかのように。


「喋らないでくださいです。御身体に障ります」


 彼女は頬に添えられたてのひらをぎゅっと、握り締めた。

 筋張った指は、異様なほどに凍えていた。魂が剥がれていくのが感じ取れるのに、プエッラにはただ抱き締めていることしかできない。どうして引き留められないのだろうか。こんなに近くにいるのに。こんなに大事なひとなのに。

 死という概念を理解できない人形でさえ、怯えずにはいられなかった。


 されどユリウスは、痛みに身を委ねて、残酷な運命を受け入れていた。恐怖がないわけではないのだ。嘆きや未練を持ちながら、彼は静穏を保っていた。


「プエッラ。聴いて、くれ」


 呼吸を整えて、ユリウスが優しく語りかけた。


「君は、私の、たったひとりの娘だ」


 小指を差し伸ばす。子供に付き合う飯事ままごとの延長のように。

 かぎりない慈しみを滲ませて。


「娘のような、ではない。紛れもなく、君は最愛の娘だよ。だから最期にもう一つだけ、私の願いをかなえて、くれないかい? 約束を、してくれないか?」


 忠義。正義。そうしたものに則って、彼は数多の幸せを奪い取ってきた。自身の幸福や安らかな死期などを望めるような人生ではなかった。盲目の騎士はそれを理解して、いかなる処罰でも微笑みながら受け取る覚悟を決めていたのだ。


 けれどひとつだけ、願えるとするのならば。


「――幸せに、おなりなさい」


 彼女には、何の罪もない。


 最期に瞼の裏側に浮かんだのはきっと、最愛の娘の微笑みだったに違いない。その微笑みに応じるかのように目許を綻ばして、ユリウスは静かに息を引き取った。


 繋いでいた指が解けて。

 ぽつり、薔薇の首がもげるように。


「いやぁ、いやあぁぁあぁぁ――――――――ッ」


 遺された人形の慟哭が、雷雲を切り裂くように響き渡った。

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