第25譚 壊れる

 人形の慟哭どうこくはびりびりと空気を罅割ひびわらせて、硬直状態にあったふたりの意識すら掻き集める。顛末を見つめることしかできなかったキョウは、凄まじい絶叫に眩暈めまいを起こして、食卓に立ちすがった。鼓膜が破れなかったのが奇跡だ。あの小さな身体の、どこからこれほどの声が放たれるのかは想像すらできない。


「………………ッ」


 急にプエッラがきわめくのをやめた。

 声を使い果たしたのか、微かな吐息だけが静寂を揺らす。

 魂が抜けてしまったかのようだ。停まったのかと思うほどの沈黙を挟んで、ゆらりと。


 プエッラが身体を起こして、玄関に近寄っていく。その足取りは緩慢すぎて、全員が反応を鈍らせた。玄関の隅に置かれていた斧を握り締めると、プエッラはわずかな逡巡すらなく、跳び上がり、それを振りかぶった。仕着せに包まれた背中目掛けて。


「レムッ!」


 レムノリアが慌てて避けたが、斧は肩を裂いた。

 斧は玄関の石畳に衝突する寸前で回転。無理矢理に方向転換させられた斧が、玄関から一歩外側で構えていた麗人の左脇腹に突き刺さった。痛みなんてものではない。上半身が斜めに裂かれ、整った容貌が引き攣った。どれほど美しい顔であれ、皮膚の内側は筋肉の塊だということを理解させるほど、複雑に痙攣けいれんする。

 けれど無様に崩れ落ちはしない。

 彼女が人間ならば、致命傷になり得るほどの傷だ。


「ラティウムの、人形か」


 現実離れした銀の髪。絶対零度ぜったいれいど的な美貌。

 彼女は明らかに人形の特徴を持っていた。

 何故に気づかなかったのか。という後悔の念を禁じて、キョウが拳銃を構え直す。レムノリアが負傷して、現段階で自分自身の身を護れるものはこの小型拳銃しかなかった。


 けれど戦場は、すでに薔薇の人形と銀の人形に引き渡されていた。


 斧は未だ、華奢な脇腹に刺さっていた。プエッラが相手の脇腹から斧を引き抜こうとしたが、ラティウムの人形がそれを許さない。右腕で斧の柄をつかんで逃げられないようにしてから、左腕に握っていた剣で反撃。研ぎ澄まされた剣が、柔らかな腹を貫いた。さびの臭いが漂う薔薇を散らしながら、プエッラは怯まない。ぎらぎらとした眼を剥いて、斧を引き寄せる両腕に力を込めた。細腕が軋んで、力を入れ過ぎた指が、ぐにゃりと折れ曲がっていく。


 強引に斧を取り戻して、プエッラはよろめきながら追撃を加えた。完全に斧の重量に振りまわされているにも関わらず、いざ相手が隙を突こうとすれば、無理にでも軌道を変えてくる。ラティウムの人形が攻撃を畳みかけても、彼女は捨て身で斧を振りかぶるのだ。


 斧が無茶な方向転換をする度、彼女の四肢が悲鳴を上げている。すでに腕は折れ曲がっていた。限界を考慮せず、痛みすら認知せずに暴れる姿は、どう考えても常軌を逸していた。常識を持ち得ない相手ほど、戦い難いものはいない。


 翻弄されていたラティウムの人形が一瞬、薔薇の蔓に足を取られてしまった。

 斧が振り下ろされ。


「あ、が……ッ」


 剣を握った腕が斬り落とされた。


 薔薇の根本に転がった腕は創り物のようで。

 いや、実際に創作物なのだけれど、生きていたものとは到底思えず。

 悲惨極まりない。

 されどもっとも残酷な事実は、このような行為に及んだものが、あのあどけない娘だということに他ならなかった。


 彼女の指は、料理を創る為のものだ。楽器を演奏する為のものだ。

 屋敷を清掃する為のものだ。薔薇を慈しむ為のものだ。

 主の平穏を飾りつける為のものだ、と誇っていたはずなのに。


「暴走でしょうか」

「……事例とは異なるが、間違いない」


 レムノリアが肩を押さえて、キョウの側に戻ってきた。


「前例からすると、人形が暴走するのは主を奪われるか、引き離された場合のみだ。本来は主が息を引き取れば、人形もまた全機能を停止する。されどプエッラは、この事態を前者だと認識したようだ。彼女は、最愛の主を奪われた、と判断したんだ」


「無理もございませんわ」


 物言わぬ亡骸を見つめ、キョウが拳を握り締めた。

 窓に視線を滑らせれば、未だ激闘は続いているようだ。利き腕を切断された銀の人形は圧倒的な窮地に陥っていた。撤退しないのは命令を遂行できていないからか。

 もっと言えば、主人の命令を遵守している銀の人形は、ある程度加減をしながらしか戦えない。対するプエッラは、あらゆるものを顧みず、ただ相手の破壊のみを追及していた。


 一際激しい稲妻が走り、薔薇園の狭間に影だけが浮かび上がった。

 斧を振りかぶった小さな人影が、相手の首を斬り落とす。


 ごろりと。

 人形の首が落ちた。


 断末魔は聴こえない。あるいは雷鳴に掻き消されたのか。


 激しい雨ですら洗い流せないほどの血飛沫が噴き上がり、咲き誇っていた薔薇の群を染め上げた。白は赤く塗り替えられ、薄紅も凄惨せいさんなほど色彩いろを増す。変わり果てた薔薇園に立ち尽くす幼い人影もまた、以前の面影を残してはいなかった。

 窓を開け放って、呼びかけようとしたキョウが一瞬、喉を詰まらす。


「―――ウィタ=ラティウム、ウィタ、ウィタ=ラティウム」


 そう繰り返しながら、彼女は憎悪を滾らせていた。

 絶望や失意、悲愴や憤怒すら入り雑じらない。悪意を持たない人形が燃やす憎しみの焔は、人間が持ち得る激情より遥かに透き通っていた。柔らかな髪は血糊でくすんでおり、頬には純真の片鱗へんりんすら見当たらない。あどけない娘はもはや、どこにもいなかった。

 薔薇の人形は素早く身を反して、森の方角に消え去っていく。


「追いましょうか?」

「いや、深追いは危険だ」


 森は隠れるところが数多にあり、奇襲を受ければ一巻の終わりだ。ただでさえレムノリアは負傷している。暴走した人形を追いかけて、夜の森に踏み込むのは得策ではない。

 キョウはそう言いながら、追いすがるように森を睨み続けていた。

 人形の後ろ姿が見えなくなってもずっと。

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