第17譚 人形は最期まで

 あらためて時計を確認すれば、すでに夜は深みを増していた。

 客室に戻ろうと、レムノリアを連れて二階に上がれば、廊下で花瓶を抱えたプエッラとすれ違った。重い荷物を持った彼女を引き留めるのは気が退けるが、いましか機会はなさそうだ。彼女にはひとつ、問い質さなければならないことがあるのだ。

 眠気を振り払って、キョウがすれ違いざまに呼びかけた。


「ちょっと尋ねたいことがあるのだけれど、構わないだろうか?」

「はい、どうかしましたですか? 何か必要なものでもありましたです?」


「【ave atque valeアウェー アトゥクェ ウァレー.】がどのような意味を持つ曲なのかは知っているか? 【アウェー アトゥクェ ウァレー】とは昔の言語で【こんにちは、そうしてさようなら】という意味を持つ。そうしたことから主に旅の途上で出逢ったものに捧げられるが、作曲家であるカミル氏の経歴を知れば、実際の意味が全く異なっていることが解る。君は、知っているはずだ」


 知らなければ、あれほど完璧な演奏はできない。

 プエッラが短い沈黙を挟んで、微かに首を傾げた。


「最愛の奥さんとの死別、です?」

「そう、鎮魂歌なんだよ、あれは。君はやはり、知っていたんだね」


 子供らしく振舞ってはいるが、彼女はあくまでも人形だ。思考はさほど幼くはない。

 彼女は、どのような気持ちで鎮魂歌を演奏していたのか。近い将来に敬愛する主が死去すると知りながら、はたして鎮魂歌に何を感じ得るのか。気にはかかったが、それ以前により核心的なことを問わなければならない。


「君はどう受けとめているんだ」


 薔薇色に色づいた頬がこわばり、瞳が潤む。

 聞きたくないと言わんばかりに身体を縮ませていた。


「主との避けられない離別を」


 死別とは言わない。その言葉を選ぶほど、キョウは残酷にはなれなかった。

 もっとも柔らかく装っていようと、真意は変わらない。プエッラが嫌々と首を振り、泣き出しそうになりながら、キョウを見つめた。悲しみに凍りついた喉を震わせて、彼女はこう返す。


「人間はいつか、停まるものだと、だんなさまが」


 人形は死の概念を認識できないわけではないが、理解はできない。自分自身に密接している概念ではないからだ。故にプエッラの言動はどこかたどたどしく、つたなかった。


 相手が停まり、もう二度と動かない。彼女にはそれしか解らない。

 けれどそれ以外に何があるだろうか。


「プエッラは、だんなさまに仕えます」


 ぽつりぽつりと、雨垂れのように言葉を紡ぐ。


「だんなさまが穏やかな時間を過ごせるように、薔薇を咲かせて、料理を用意して、綺麗に掃除をして。それくらいしか、プエッラにはできませんけれど。それでもだんなさまは、喜んでくれるから。嬉しそうに微笑んでくれるから」


 真摯な眼差しでこう告げた。


「プエッラは最期まで、だんなさまに仕えます」


 揺るぎない解。人形のかい。何が起こっても変わらない彼女自身の本懐ほんかい

 無理して微笑もうとしたようだが、あえなく失敗してしまった。くしゃりと顔をゆがませて、彼女は花瓶を抱きしめた腕に力を込める。夕陽をともす双眸ひとみには、透明な膜が張っていた。


「けれど、その最期が。だんなさまの最期ではなくて、プエッラの最期だったらと」


 真意が汲めず、キョウが眉根を寄せた。


「どういうことなのか、解りかねるのだが」

「プエッラが奉仕する相手は、だんなさまひとりだけ。だんなさまが停まってしまっても、二度と微笑んでくれなくても、だんなさま以外の御方に服事したくはないのが、プエッラなのです。けれどそれが、だんなさまの願いでしたら、プエッラは――」


 思い詰めたように声を詰まらす。涙が溢れて、花瓶に挿された薔薇を濡らしていた。

 キョウは事情が呑み込めなかったが、ひとつだけ解ることがあった。


「……君が、心配することはない」


 低く囁きかけた。真実に裏づけられたなぐさめには、憐れみがにじんでいた。


 人形は物ではない。けれど人間でもなかった。

 それが救いになるかどうかは解らないけれど。


「君は主に取り残されはしないよ」


 戸惑いに揺れる人形を置いて、キョウが廊下を通り過ぎていく。

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