第16譚 其の演奏は薔薇が綻ぶような

 全員の席に紅茶を配り、その場はまた穏やかな空気を取り戻す。

 紅茶をたしなみながら、また他愛無い話をしていたが、ユリウスが何かを思いついたようだ。


「ああ、そうだ。プエッラ。お客さまにピアノを披露してはどうかね?」


 居室の端には、グランドピアノが置かれていた。

 磨き抜かれて光を反射する鍵盤楽器は、置物のように静寂を保っていた。考えてもいなかったが、楽器があるということは演奏できるものが暮らしているのだ。重厚な鍵盤を見れば、素人目でも上質な旋律が奏でられるだろうと予想された。あとは演奏する者の腕次第か。

 プエッラは遠慮がちに頷いて、ピアノの椅子に腰掛けた。


「つたない弾き語りですが、お聴きいただけたら嬉しいです」


 鍵盤に指を乗せた。

 まだ成長しきっていない指が、微かに震えるのが解った。


 指が鍵盤を弾く。

 凛と、整った音律が響き渡った。


 音の余韻よいんを追いかけて、彼女はひとつひとつ、丁寧に音律を連ねていく。ばらばらに跳ねまわっていた音符が寄り添い、旋律になる過程がこれほど美しいとは思わなかった。なめらかだが、その仕草に音符を従える傲慢さはない。音符が自然と、彼女の奏でたい楽譜に寄り集まってきていた。孤独な雨粒が清流になり、ひとつの種子から花畑が広がっていく――。そんな風景が瞼の裏に浮かんで、キョウが静かに目を塞ぐ。


 薄い皮膚を通り抜けて、網膜の表を音符が跳ねまわった。


 音符はいつの間にか、人影を象っていた。

 薄紅に染まった影。あどけなさを残したまろやかな肢体。彼女は旋律に身を預けて、軽やかに舞い遊んでいた。幼さをにじませたつまさきが五線譜に乗せられ、回転しながら重心を落とす。振り上げられた片脚が、今は帳に隠されている太陽を指す。両脚が再びに楽譜を踏んで、その場で前転。座り込んだ態勢から反動をつけて、片脚だけで回り、廻る。徐々に重心を移して立ち上がり、影は音符と戯れながら踊り続けた。

 これほど美しい幻想を見せるのだ。

 影が寄り添うその演奏は、当然のことながら素晴らしかった。


 鍵盤楽器の韻律いんりつは柔らかく、薔薇が綻ぶ調べに似ていた。朝露に揺れた薔薇が花弁を広げようと震える一瞬には、音とも言えない微かな調べが聴こえる。

 つぼみに溜まった雫を弾くからなのか、絡まっていたやくほどけるからなのか。どのような現象があの調べを奏でているかは解らなかった。けれどあれほど純粋な旋律は、きっと他にはない。キョウは常々そう思っていたが、この演奏はそうした純粋さを遥かに凌駕りょうがする純真を宿していた。


 曲が終わり、その場に静寂が押し寄せた。


「素晴らしかった」


 キョウは音が鳴らない拍手を捧げて、微笑む。


「ありがとうございます、なのです」


 演奏が終わってからまた緊張してきたようだ。

 プエッラが頬を染めながら、ぺこりと頭を垂れた。

 鍵盤を離れた指は短くて、細い。ただの子供の指に過ぎなかった。どうしてこんなにあどけない指先から、あれほど見事な旋律が流れだすのだろうか。疑問を抱かずにはいられない。どれほどの努力の積み重ねがあったのか。


「いまの曲は【ave atque vale.アウェー・アトクゥェ・ウァレー】か?」

「はい。そうなのです。音楽に詳しいんですね」

「いや、別段音楽に精通しているわけではないのだけれど、以前吟遊詩人と交流する機会があったんだ。その際に聴かせてもらった。もっとも君のほうがよほど上手な演奏だが。君の演奏は実に見事だったよ」


 キョウは思いつくかぎりの称賛を贈り続けた。プエッラは謙遜けんそんしながら照れて、ユリウスがそんなふたりの会話を微笑ましそうに眺める。擬似的ではあるが、家族の団欒だんらんのような暖かな雰囲気に満ちていた。話題は尽きない。けれど病に侵された身体では、さすがに疲れたようだ。ユリウスがびてから、寝室に引き上げてしまった。

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