第18譚 演奏にこめられた願い

 厚い木製の扉を締めてから、キョウはやっと酸素を得られたとばかりに息を吐いた。身体を投げだすように寝台の端に腰を掛ける。何も言わず、レムノリアがその場に膝をついた。

 しなやかな女性の指が、靴紐を解く。


「彼女は、何が言いたかったのだろうか?」


 廊下での会話には明らかなずれが発生していた。


「いや、食い違いがあるのは当然か。ユリウスが僕にどの程度話したのか、プエッラは知り得ていない。僕が実際に打ち明けられた事情、プエッラがすでに知られているはずだと予想している内情は違っている。となると、ユリウスが僕に語らなかったことがあるということだ」


 思考を巡らす。けれど情報が複雑に絡まっていて、すぐには整理できない。


「それが一体、何なのかが解らないんだよ」


 解けた靴紐がするりと、精緻せいちな人形の指に掛かった。

 靴を脱がしながら、レムノリアが前置きもなく、こう述べた。


「妻であるエイミー=シルバが死去してから、一ヶ月後に女優と再婚。三ヶ月後には破局したが、離婚から一週間経過した頃には女性画家と交際。それから二ヶ月で結婚したものの、一年と持たずに離婚。結婚しては離婚という不誠実な行為を繰り返すこと十七回に及んだが、その後は精神病を患い、孤独死。没四十三歳。以上が作曲家カミル=シルバの経歴でございます」


「よく覚えているものだな、感心するよ」

「暗記は得意分野ですので」


 続けて、レムノリアが包帯に手を掛けた。細い足首に巻きついた結び目を解く。虚ろにそれを眺めつつ、キョウは憶測を連ねた。


「結婚しては離婚を繰り返す所業のみを言えば、ただの好色家だが、シルバ氏は最愛の妻の代替を探していたんじゃないだろうか? 妻の不在を埋め合わせられる異性を求めて。だがそれは、意味をなさなかった。当然のことだ。妻という役割の代替は務まっても、エイミー=シルバという女性の代替は何者にもできない。とすれば、プエッラの真意は、そこにあると考えるべきか。鎮魂ではなく。ああ、だが確かにそうだな、死の概念を理解できない人形が鎮魂という発想をする可能性は低いか」

 あの美しい旋律を思い返す。鎮魂の願いを込めた弾かれたものならば、あれほど柔らかな調べにはならなかったはずだ。一方的に投げかけるような音律になっていたに違いない。けれどそうはならず、彼女の旋律は演奏を聴くものからも音楽的な感情を呼び覚ますような波長を有していた。共鳴を呼び起こすものは、鎮魂歌とは言えない。


「すると、彼女は作曲家の思想そのものを演奏したのか」


 小さな人形に作曲家の思想を重ねれば、はたしてどのような解が導きだされるのか。結婚や離婚などに関与しない人形が、この複雑な経緯に何を投影したのか。


「彼女の言葉から推測するならば、所有権移転に関する情報ではございませんか? ユリウスさまの死後は、人形が服事する相手が入れ替わるということではないでしょうか」

「所有権の移転か? だがそれは不可能――」


 そう言いかけて、キョウが一度言葉を途切れさせた。


「……いや待てよ、実際には人形の所有権は移せないが、ユリウスはそれを知り得ないか。僕は、きっと疲れているんだな。全く思い至らなかった。もっともユリウス=ホローポが所有権を転移しようとしているという可能性だけでは、まだ結論は導きだせないか。プエッラがそれを嘆いていることを知ってなお、強引に所有権を映す行為は人形を物と扱うに等しいが」


 いずれにせよ、これ以上考えても結論は導けそうになかった。


「もう一日、様子を視察して、情報を集める必要があるか」


 意識を現実に戻す。どっと疲労が押し寄せてきた。

 包帯はずいぶんと解かれていた。

 さすがに就寝している間は包帯を取らなければ、安眠は得られない。両脚の包帯を外すと、続けて両腕。首の包帯はキョウ自身が解いた。他にも胸や腹にも包帯が巻きつけられていたが、それは服を脱がなければ解けない。


「後は僕がやる」


 疲れきったようにキョウが身体を横たえた。


「左様でございますか。それでは、私はこの屋敷を散策して参ります。何か手掛かりになるものがあるかも知れませんので。みなが寝静まった時刻でしたら、書類なども調べられるかと」


 壁に掛けられた時計の針は、すでに頂点を示していた。


「……助かるよ。ただ三時までには帰室して、睡眠を取れ」

「御言葉ながら。私は睡眠や食事を必要と致しません」


 虹がちりばめられた双眸そうぼうは、すでにどんな感情も映してはいなかった。感情を覗かせることは滅多にない。人前では常に穏やかな朗笑ろうしょうを浮かべているが、整えられた表情は感情と言えるものではなかった。キョウが強引に暴きたくなるのは無理もない。静寂だけを湛えた美貌は、胸を不規則に揺さぶり、不安感を煽るのだ。


「生命維持には必要ではなくとも、必要なものはあるだろう。良い夢を見ればいい」

「御命令でしたら、厳守致しますわ」


 丁重に礼をして、レムノリアが退室していく。

 残されたキョウは額に腕を押しつけ、天井の隅に渦巻く影を睨む。




 不幸には終わりがないのに、幸福がすぐに消え失せてしまうのは何故だろうか。憎しみはいくらでも連鎖していくのに、愛情や忠義や慈愛は滞って、連ならない。純粋な気持ちが生き続けるには、この世界には優しさが足りなかった。

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