第2章 銀の人形

第29譚 其の人形は物だった

 幌馬車は黙々と車輪を転がす。

 森の暗がりに時計を落としてしまったのか、小夜啼鳥がしきりに囀っていた。

 小夜啼鳥さよなきどりはこの地域では宵の歌姫という通称で親しまれているが、その裏で墓場鳥はかばどりとの異称を持っていた。森の静寂を揺らす独唱が鎮魂歌に似ているからだ。小夜啼鳥のさえずりは、いたみの歌声だと誰かが語っていた。空が黒いとばりに包まれてからしか歌わないのはきっと、誰かに哀悼の意を表しているからなのだ、と。


 物憂ものうい旋律がいんいんと、遥か彼方まで余韻よいんを引く。

 鎮魂歌すら振りきるようにして、感傷を持たない車輪の音が、規則的に重ねられていた。馬のひずめが時々水たまりを跳ねては、変則的に車輪の演奏を乱す。


 銀の人形はずっと唇の端を結んで、何事かを考え込んでいるようだ。

 首にはすでに止血処置が施されていた。髪に大量の血糊が絡みついていたので、それを解きほぐしてから丁寧に拭き取った。器用に指を交差させて、キョウが長い銀髪を三つ編みに編み上げていく。日頃から人形を創作しているからか、彼は手際が良かった。


「――わたしは、人質にはならない」


 銀の人形が、不意にそう吐き捨てた。

 編み終えた髪から手を離して、キョウが片側の眉を持ち上げた。

 沈黙を保っていたのはそんなことを考えていたからだったのか。キョウは呆れ返りそうになったが、人形の立場になれば無理もない。相手に警戒の牙を剥きだすのも、何らかの利用価値があって連れてきたのだろうと推測するのも当然のことだ。


「そんな卑怯な手段は使わない」


 毒気を抜かれたようにたじろいで、銀の人形が視線を落とす。


「わたしは、あるじの情報は、喋らない」

「尋ねるつもりもないよ。人形は主を裏切らない。どんな状況に置かれても、どんな待遇を受けていても。いや、これだと語弊ごへいがあるか。例えば何らかのことをすれば、情報を得られるとして僕はそれを強要する気はない」

「だったら」


 怯えるように振り仰いで。


「何の為に連れてきた?」


 銀の人形は、武術に秀でていた。

 争いごとに慣れたものや戦術や策略に精通しているものほど、思考が推し量れない相手を恐れ、より強く警戒するのだ。価値観や判断基準が異なる相手は、どのような行動に転じるか判断できず、対処のしようがない。本能的な恐怖を表されて、キョウが表情を曇らす。


「僕は、お前に危害を加える気はないよ。破壊するつもりならばすでに破壊しているし、利用価値があるかどうかは考えていない。利用するつもりがないからだ。ついでに言えば、現時点ではウィタ=ラティウムの敵でもないよ」


 キョウは社交的な人種ではない。

 けれどある程度の要領は心得ていた。

 必要とあれば、上辺を装って世辞や口説で機嫌を取り、虚偽の餌を振りまくことにためらいはない。されど人形には、可能なかぎりは誠実であろうと努めていた。

 それが人形師の矜持きょうじであり、彼自身の信条だ。


「……嘘だ……」


 人形は一言で切り捨てた。


「嘘だと思うならば、それでも僕は構わない」


 連なっていた枝が徐々に疎らになってきたのか、穏やかな光が差し込んできた。


「薔薇のなかに転がっていたお前は、捨てられているようだった。同情と言ったら、お前は気分を損ねるだろうが、憐れみに近い感情からお前を連れていこうと思ったのは事実だ。僕もお前と似た境遇だったことがある」


 物憂いげに微笑んでから、キョウが遠くに視線を移す。


「僕のことはいい。名前を教えてくれないか?」

「名前は、持っていない」


 ため息の延長のように、彼女はそう告げた。


「わたしは人形だ。それ以外には呼びかたなど必要ない」


 銀の人形は嘆いていなかった。名前がない。その事実に味気無さにも似た感情を覚えながら、そういうものであると受け入れて、わずかたりとも疑ってはいない。

 何かが不幸かを知らないことが、最大の不幸であるとも知らずに。


 彼女は長きに渡って、氷の檻に身を置いていたのだろうか。彼女だけの名前を呼ばれることもなく、人間を殺める為に戦闘技術だけは覚え込まされて。


 キョウが、包帯まみれの拳を握り締めた。


「お前は」

 物だったのか。


 言いかけて、喉を詰まらす。


 小夜啼鳥が急に静まり返った。森を抜けたのだ。石積みの壁をたどっていけば、午後には都市に到着できるはずだ。草が生い繁った轍の車輪を乗せて、また黙々と馬を走らす。


「ロサ――と呼ばせてもらっても構わないか?」

「不要。あなたがわたしを呼ぶ必要がない」

「しばらくは、一緒に行動することになるんだ。名前がないのはさすがに不便極まりない。お前からすれば必要ないだろうが、僕からすれば必要だ。別の名称がよければ考え直すが」


「呼びかける必要がない。わたしは、あなたの人形ではない」


 彼女はかたくなに呼称を嫌がった。

 怯えが感じ取れたのはきっと、気のせいではない。


 銀の人形――いやロサは、首を斬り落とされてなお、主人を呼び続けていた。壊れるならば主の側で、と憐れなほどに。都市に立ち寄らず遠い場所に逃げれば、彼女は主従の呪縛から解き放たれるのだろうか。あるいはそんなかんたんなものだったら、良かったのだ。

 主人から引き離せば、人形は壊れる。痛いほどに理解していた。


「お前の身柄は、後ほどウィタ=ラティウムに返す」


 銀の睫毛を震わせて、緑眼りょくがんが希望を見いだす。

 双眸を弾ませないで欲しかった。安堵の吐息を零さないで欲しかった。彼女が希望だと信じてやまない一筋の帯は、粘着性を帯びた影にすぎないのだ。間違っても光の架け橋などではない。部分的にしか知らずとも予想がつくほどに、銀の人形は不幸にむしばまれていた。

 それなのに。いや、それだからなのか。


「お前はやはり、それを望むんだな」


 悲痛さを禁じ得なかった。

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