第37譚 そうして誰も幸せにはなれなかった

「兄さんが遺したものは三百二十四体の人形だけ」


 兄さんが望んだ通りに誰もが幸せであれば、あるいはまだ救われた。

 けれど、そうはならなかった。そうはならなかったのだ。


 ひとつ、ふたつと人形を訪ねて、彼はこの世界が如何に残酷かを知ってしまった。

 ひとつは劇場で不特定多数のなぐさみ者にされていた。もうひとつは昼夜問わず働かされ、奴隷以下の扱いを受けていた。


 世界は純粋なものには決して、優しくない。

 希望は裏返り、幸福などたやすく打ち砕かれるのだ。



 誰かの喜びを信じて創作し続けた人形師は。

 幸福にはなれなかった。



 誰かの幸せを願って創作された人形もまた。

 幸福にはなれなかった。



 世界とはそんなものだ――。


 解かっていたのに、裏切られたと思ったのが、殊更ことさらに憐れだ。



「御言葉ですが。三百二十五体でございますわ、キョウさま」


 虹を拡散しながら、レムノリアが緩やかに瞬きを繰り返す。

 静かに群青の双眸ひとみを見つめて。


「私がおります」


 群青の天幕に星屑が散らされるように。

 虹の破片が、隣り合わせた双眸ひとみに映り込んだ。


「私は、貴方さまを理解できません。私は両親を持たず、兄弟を持たず。肉親から棄てられる痛みなど想像すらつきません。貴方さまの痛みは、貴方さましか知り得ない。貴方さまの絶望は、貴方さまのものにてございます」


 いつだってそうだ。彼女は静寂を従わせて、凛と揺るがない。


「理解できると豪語するほど愚かしく、傲慢なことはございません」


 抱き締めて囁きかけても、言っていることは善意に満ちた盲目の騎士とは真逆だ。

 けれどキョウは、体温には馴染めない。眩しいほどの陽だまりに抱かれるより影の寝台に横たわって眠りたい。

 赦しは要らなかった。

 ましてや、慰めなど要らなかった。


「けれど私は、常に貴方さまの側におりましょう」


 内側には踏み込めないけれど。

 腕を伸ばせば、すぐに触れられるところにいようと。


「レムノリア――いや、レム」


 人形師の亡骸の側には人形がのこされていた。

 彼女は何も持たない子供にひざまずいてご主人さまと慕い、側に寄り添ってくれた。


「出逢った当初はずいぶんと反発して、迷惑をかけてしまったね。すまなかった。いまはもうあんなことは思っていない。いや、あの頃から逆恨みにすぎないことは理解していた。けれど投げつけずにはいられなかったんだ」


 揺るぎない献身が凍てついた心を解かすのに、さほど時間はかからなかった。

 人形師は自身の死期を覚り、人形を残したのだろうか。あるいは異なる意図があったのか。


「どうか謝らないでください。兄さんを返せ、お前なんて要らなかった――と言われたことなど、私は微塵みじんも気にしておりませんので」

「……謝っているんだから、勘弁してくれ」


 抱き締めていた腕を解いて、レムノリアは唇の端を持ち上げた。

 皮肉を述べているのに、悪意はない。親しみさえ感じられるほどだ。

 思えば、実兄とはこのような会話をしたことはなかった。キョウは彼を慕い、彼も惜しみなく愛情をそそいでくれていたが、親しい兄弟だったかと訊かれれば、首を傾ぐ他にない。兄弟、という間柄ではなかった。互いに遠慮して本音は語らず、喧嘩はもちろん、じゃれあいなどもしなかった。


 間を置いてから、キョウが一瞬、客室に視線を飛ばす。


「ロサがどうすれば幸せになれるか、ずっと考えていたんだ」


 客室の隅には旅行鞄があり、ロサが産まれてはじめての深い眠りに就いていた。

 宿屋に着いて食事を食べてから、鞄をあけて見れば、彼女はすでに寝息を立てていた。鞄は揺り籠のように気持ちを安らがせて、夢に誘ったようだ。子供のような寝顔を見つめていたら、また胸の痛みが加速して、どうにもならない感情が湧き上がってきた。


「彼女はもう戦えない。だから僕は――」

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