締章
エピローグ いつか償い終えるまで
月盤に追われながら、幌馬車が街道を進んでいく。
痩せた馬が転がす車輪は緩慢に雑草を押し潰した。幾度となく車輪に轢かれても、蒲公英は新たな若葉を伸ばす。植物は、決して臆さない。
一輪の蒲公英が車輪に絡みついて馬車が傾ぐ。
馬が踏ん張り、一秒と持たずにちぎれてしまった。
ただちぎられたわけではない。茎から無数の綿毛が飛びたっていく。草原の彼方に渡っていく綿毛を捕まえようと、幌馬車に乗り込んでいた人影が身を乗りだす。
手袋に覆われた掌は、綿毛を捕まえ損ねた。
「破壊しなくてよかったのですか? キョウさま」
その様子を脇目に眺めていたレムノリアが、静かに問いかけた。
脇に置かれた旅行鞄にはただの人形が収められている。微笑みもせず、嘆きもしない人形は以前そこにいた人形を案じはしない。染みついた鉄の臭いは、いつかは抜けるだろうか。
人形の首は、持ち主に返された。人形の望み通りに。
彼女はそれを受け取り、優しく抱き締めていた。
「棄てられた人形は壊れるが、棄てられ、また拾われた人形がどうなるのかはまだ解らない」
回復する可能性はあるはずだ。極めて低い確率ではあるけれど。
ただ人形師の片割れが預かっていても、確実に意識は取り戻さない。ウィタ=ラティウムでなければならないのだ。彼女だけが、人形の魂を引き戻せる腕を持っていた。人形師の腕は、触れられもしない。枯れ果てた細腕では短すぎるのだ。
「僕は領主を信じてはいないよ」
誰に言うでもなく、疑心を転がす。
「領主のことは赦せない」
けれど赦す、赦さないを決められるのは彼ではない。
神なんて、きっといないのだから。
「人形の意志に委ねようと思ったんだ」
「左様でございますか」
痩せた馬を見つめて、付け加えた。
「もっとも幌馬車と馬を返してくれたことだけは、感謝するが」
宿屋に置いたきりになってしまった幌馬車は、二度と戻ってこないだろうと諦めかけていた。人形の首を受け取ったウィタは、泣き腫らした顔をしながら、まるで憑き物が落ちたかのようだった。いくつかの問答を経て、街道に幌馬車を持ってきてくれたのだ。無駄に資金を浪費する必要がなくなり、また愛着のある馬とも再会できた。それで赦せるかと言えば、赦せない。けれど、彼女の内側で何かが変わったのではないだろうか。そう予感せずにはいられなかった。
しかしながら人形師の片割れは、都市の経過には関与しない。
次にこの都市に訪れる際には、冤罪は取り払って置く、と言っていたが、もう二度とあの都市に立ち寄ることはない。
馬車の車輪は決して、後ろには進まないのだ。
「残りは二百九十七体か」
途方もない数だ。
そのうちのいくつが不幸で、いくつが幸なのか。
人間ならば、不本意な境遇や運命は、覚悟次第で打ち破れた。不純さ故に。壁を越える為に不浄な脚があり、障害を振り払う為に邪な腕がついているのだ。けれど純粋さしか持たない人形は、決して宿命から逃れられない。
望まぬ境遇に浸り、黙って腐食していく。
彼女らは、白い鴉のようだ。
優しくない世界で生き抜くには、創り物の翼は脆すぎた。
「旅が終わったら、僕はどうなるんだろうか」
疲れ果てたように宛てのない疑問を転がす。
人形を憂う感傷でさえ、完璧なる白ではない。
憐れみに存在意義を織り込んで、贖罪で包み込んだ紛い物の――けれど、それでも人形を愛しむ気持ちには嘘はない。真実でないということが、嘘だという証明にはならなかった。
「存在意義がなくなったら、僕は」
「私には解りかねます」
隣に腰かけていた人形は、静かに述べた。
感情を映さない眼差しがふと揺らいで、キョウを振り返る。
「私には決して失せない存在意義がございますので」
真摯すぎる眼差しに射られ、群青の双眸が見張られた。
彼女の眼窩では絶えず、惑星が瞬く。彼女の双眸を映しだせるのは群青の帳だけだ。群青に虹が鏤められ、虹の宝珠は群青に縁取られた。代替は利かず、代替など必要とはしない。
「私は貴方さまの存在意義にはなれませんか?」
彼女がそんなことを言うとは予想だにしていなかった。
戸惑っても視線は逸らさない。彼女の真摯さに背きたくはなかった。
「僕は、お前を存在意義にできるだろうか?」
かんたんに首を縦には振れない。
薄い胸板の向こうには、常に壊れかけた空席があるのだ。ずっと紛らわせてはいたが、空席から足場が腐食して、いつかは底が抜けてしまいそうな予感があった。けれど空席を埋めあわす代替はきっと、どこにもいないのだ。
途方に暮れ、キョウが唇の端を結んだ。
「僕は――」
人形は手綱を持っていない側の腕を伸ばす。
「できますわ。物を者と認めて、愛おしんでくださる貴方さまでしたら」
キョウは手袋を脱いでから指を絡ませた。
程良い熱が染み込んだ。悪意を放たない指が、敵意を握らない掌が、愛しくて仕方がない。彼女は他の人形とは異なり、悪意を理解していた。朱に浸っても侵されない不可侵の衛星が、どれほど掛け替えのない存在になっているか。どれほど救いになっているか。
魔性的な容姿を誇りながら、彼女は純粋な微笑みを湛えた。
「できますよ、きっと」
存在意義。それはもしや、愛に似て。
与えて、与えられるものなのだろうか。
「待っていて、くれないか?」
三百二十四個の幸や不幸を見届けたら、やっと。
最愛の人形にたどり着けるはずだ。
「貴方さまは、真にもって頼みごとばかりでございますね」
機嫌を損ねたように見せかけて。
「――待っておりますわ」
小指を絡ます。ぞくりとするほど綺麗に笑いながら。
人形師の片割れは微笑み返してから、空を振り仰いだ。
薔薇のように散る巻雲が、静かに流されていく。
群青の幕に覆われた向こう側には、十字架を模した星座が浮かんでいた。翼に例えられ、橋に見立てられ、磔刑を象ると指される星の群だ。月の余韻に照らされてなお、星はちぎれることなく連なり、群青の画布に刻まれ続けていた。
星を結ぶ線は、消えない傷跡のようだ。
けれど帳に寄り添う月盤があれば、傷ついた夜とて孤独ではない。
月ならば満ちては欠けるが、彼の側に寄り添う惑星は何があろうと移ろわなかった。移ろわない輝きに照らされて、人形師は茨の道を進んでいく。
遂にすべてを贖い終える、その日まで。
人形師は祈らない 夢見里 龍 @yumeariki
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