ほっそりとしたうつくしい女、鶴呤(かくれい)は「鶴」だ。鶴は豊穣をもたらす。だが鶴はやがて、その豊穣と引き換えに月に還らなければならない。その日まで鶴を「護る」のは、低い身分の鶫刹(とうせつ)という青年であった。鶫刹は自問する。俺にとって、鶴とは。
この物語の基本線は、鶴である鶴呤と衛(まもり)である鶫刹の関係性です。二人がどのように出会い、どのような関係を築き、どのような未来に向かって進んでいくか。この物語は常に二人を軸として展開されます。
そこでおもしろいのは、鶫刹のこころが「見えない」ということです。
本作の視点は鶫刹のものです。地の文では鶫刹の心理が表現されます。しかしながら、鶫刹自身が自分の思考に対して曖昧な理解しかしていないため、読者は鶫刹のこころを想像しながら楽しむことができます。これは筆者の工夫なのだと感じました。鶫刹からは、あえて直接的な表現が抜かれている。これが想像の楽しさを引き出しました。唯一のヒントはせりふです。せりふについては、鶫刹の心情の結果がそのまま表されています。そのせりふに至るまでの経緯と、鶴呤の言葉に対して感じたことについては、読者が鶫刹に成りきって想像する必要があるのです。そういう意味で、本作の主人公は鶫刹であり、読者のあなた自身なのです。
そうすると、ましてや、鶴である鶴呤の心情などすぐにわかるものではありません。ゆえに読者は、鶴呤のことを非常にミステリアスな女性だと感じるでしょう。この書き方がすごく面白かったですよ。鶴呤のヒロイン性を高めた書き方だと感じました。
もともと「鶴」というのは不思議な存在ではないですか。さらにいえば、この物語の世界観においても異質な存在です。そんな彼女のこころをガンガン暴かせては、これはもう鶴としての鶴呤が台無しです。本作では、「鶫刹は鶴呤を掴みきれない」「鶫刹は鶫刹自身を理解できない」という二重構造――二重のフィルターが備えられているから、読者は鶴呤を極めて異質な存在として捉えることができるのですね。すばらしいです。
ファンタジーの良さって、読者をその世界観に没入させてくれることです。もちろん共感の要素をもたせておかないと読みづらくなってしまうのですが、本作では共感をさせつつも鶴呤をミステリアスな存在として描くことに成功しています。そう、鶴は異質なのですよ。へんな言い方ですが、我々よりも上位の生命というか。上位の生命の気持ちや言葉の内容を想像しながら読める、これはたいへん贅沢なファンタジー体験です。
私はミステリアスヒロインが大・大・大好きですから。この作品は本当にすばらしいと思いましたね。鶫刹、そりゃきみもそういう行動に出るわな。そう思いながら読みました。
エンディングもよかった。必然ですね、これは。だって鶫刹は鶴呤を掴みきれていないんだもん。そうなりますよね。キャラクターの性質と関係から導かれた、必然たるエンディングだったと思いますよ。拍手喝采ですよ。ニコ動ならここで88888888ですよ。
さらにもうちょっと言及しますが、鶫刹が衛になったときのくだりは絶品でした。鶫刹と鶴呤、二人とも最高! と思いました。それからエンディングのうつくしいことうつくしいこと。幻想とはまさにこのことですね。もう、鶴呤のせりふが良すぎます。痺れました。比喩じゃなくほんとに頭が痺れるので読んでくださいマジで。
THE・夢見里ワールドでした。
天才が天才たる証拠を目の当たりにしたような一作でした。
文章が、この言葉しかないと言う当て嵌まり方をしており、上手いだとかそういう表現ではいけないように思えました。初めからこうやって生まれて来たと言うべきでしょうか。初めから終わりまでがひと繋ぎの文章としてどこかに存在していて、それをそのまま綴られたような。そんなしっくりさがありました。いや、しっくりというのも失礼と思えるほどに。
ラストシーンは、悲しみの先にある情熱、絶望の暗闇の中でしか見えない小さな小さな光のように思えました。
その光は多分希望という言葉すら生ぬるい、焦げるような「思い」だったのかなと感じました。
美しかったです。
ありがとうございました。