第1章 薔薇の人形

第6譚  人形師の旅路

 幌馬車ほろばしゃが進んでいく。

 街道の両脇には豊かな森が広がっていた。朝露に濡れた常緑樹じょうりょくじゅの森は穏やかな陽射しを受けて、きらきらと微笑んでいるかのようだ。葉の間では青い実が膨らみ始めていた。小さいながらもちゃんと帽子を被った木の実が、立派に実るのははたして何ヵ月後になることだろうか。

 鳥のさえずりが響き渡って、車輪の節奏せっそうに音調をつけていく。

 森に挟まれた街道は道幅が狭かった。長らく整備されていないのか、砂利じゃりの合間からは雑草が伸びている。白詰草シロツメグサを散らしながら進む小型の幌馬車が、砂利に車輪を取られて傾ぐ。幌馬車の荷台は中央部がくぼんでいるので、斜めになっても荷物が落ちる心配はなかった。

 即座に体勢を整えて、轍に車輪を乗せ直す。


「失礼致しました」


 御者台に腰掛けていた女性が謝罪を述べた。

 彼方を見つめる瞳がわずかにふせられ、睫毛が絡む。

 薄藍を湛えた双眸そうぼうは、天王星を填め込んだかのような神秘的なきらめきに満ちていた。瞳孔に光が差し込むと無数の色彩が一斉に瞬く。散りばめられた光の粒は紫から萌黄もえぎに移り変わり、群青を主張したかと思えば深紅が咲き誇った。

 虹の雫が零れたら、このような遊色効果を持つ宝珠になるのだろうか。

 虹の眼差しを投げる女性の横顔は、ぞっとするほどに美しかった。

 咲き誇った薔薇でさえ彼女の隣では萎んでしまうに違いない。丹紅たんこうを乗せた唇の端は程良く引き結ばれ、細い顎の輪郭といい、不純物が雑ざっていない結晶を彷彿ほうふつとさせた。


 彼女は、他の追随を決して許さない美貌を誇っていた。

 いや正確には、彼女の美貌は自身より低級な美を刈り取るような残酷さを秘めている。

 豊かだが重さを感じさせない、柔らかな胸。芍薬シャクヤクの茎のようにしゃんと伸びた背に引き締まった腰の曲線。だが、こともあろうか彼女は仕着せを着込み、なまめかしい肢体を押さえつけていた。漆黒に染められた地味なドレスに前掛をつけた、どこにでもある家政婦の仕事着。その美貌は衣装などで輝きを失うほど安いものではないのだが、それでも惜しいと感ぜざるを得ない。


「ご主人さま、お怪我などはございませんか?」

「問題ない。荷物がずれた程度だ」


 低くも幼さを残した返事が、幌馬車の内部から投げかけられた。

 声の調子からすれば、まだ声変わりをしていない少年のものか。これほど高潔な女性を従わせているのが、十五歳前後の子供とは信じがたい。


「さすがに田舎だけあって、街道が荒れているようだな」


 幌から上半身を覗かせた子供は、ずいぶんと変わった格好をしていた。

 黒い外套がいとうに懐中時計。服装にはこれといって奇妙な部分はないが、彼は外套から覗く素肌全てに包帯を巻きつけていた。外套の裾から伸びた細い脚を覆い、首にも緩く包帯を結んだ姿はなんとも病的な印象を与える。さすがに指には巻いていないが、黒い手袋をして外部のものとは決して接触しないよう、厳重に注意が払われていた。包帯は顔にまで及んでいたが、さすがに視界を覆うほどではなく、額を隠す程度の役割しか果たしていない。

 何かを拒絶しているような風貌だ。


 服装にばかり視線が集中してしまうが、少年は端整な顔貌がんぼうをしていた。蒼ざめた肌は白磁はくじか、あるいは氷塊のようであり、あの女性とは別の意味で近寄りがたい空気を振りまいている。

 丁寧に切り揃えられた黒髪を掻き上げて、彼は遠くを臨む。


「野党や猛獣が出没しないだけでも有難いか」


 森の奥地にはどのようなものが棲んでいるのか、予想もつかない。森は未踏の領域であり、悪しきものの領域であるという認識が未だ根深かった。彼は、魔物や悪霊がひそんでいるなどという説を信じるほど幼くはない。けれど危険を軽んじる愚かさもまた、持っていなかった。


「左様でございますね。この時期に子連れの熊と遭遇すると、かなり高い確率で襲われます。遭わずに移動できたのは非常に運が良かったかと」

「……子供を護ろうとする親の本能か」

「はい。もっとも、そうした本能は母熊に限るようですが」


 女性は淡々と情報を述べた。


「そうなのか。以前そんな記述を読んだ気がするが、僕には関係ない話だ。熊を追い払う際や遭遇を避ける際に役立つ情報でもない。忘れる程度の小話にすぎないな」


 少年は幌馬車内部の長椅子に寝そべった。

 この幌馬車は荷を運ぶ役割を持つ貨物用馬車とは異なり、長期間旅する際に乗る為のものであった。内部は幕屋のようになっていて、長椅子は毛布を敷けば寝台になり、平地に停車している際は食卓にもなる。長椅子に寝そべりながら彼は熱心に地図を眺めていた。地図には複数の印がつけられ、ずいぶんと使い込まれているようだ。


「次の都市はラティウムだったか、あとどれくらいかかる?」

「一時間と二十七分ほどかと。馬の調子にもよりますが、誤差は十分前後でございます」


 馬は黙々と進んでいたが、朝よりは足取りが遅くなり始めていた。


「ラティウムにはふたつ――か。ひとつは領主に、もうひとつは騎士に」


 地図を睨みながら、誰に対してでもなく告げる声からは、感情の起伏が感じられなかった。

 身体を起こす。常緑樹の森から森鳩もりばとの群れが一斉に飛びたっていくのを脇目に眺めて、彼は唇の端を無理矢理に持ち上げた。悲しむような微笑みには、計り知れない疲労がにじんでいた。


「レム、いやレムノリア」

如何いかが致しましたか? キョウさま」


 レムノリアと呼びかけられた仕着せ姿の女性が振り向く。


「彼らの人形は、幸せだろうか?」


 群青と薄藍が絡む。レムノリアは相変わらず、無表情を通していた。


「私には応えかねます」

「そう、だな。そうだろうな」


 少年――改め、キョウは疲れたようにもう一度笑い、会話を途切れさせた。

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