第3章 最期の人形

第43譚 其れがはじまりの惨劇

 キョウは悪夢に取り込まれていた。

 赤い、悪夢。はたして幾度さいなまれてきたのか、解らない。

 赤く染まった視界にくらみながら、キョウが眉根を寄せた。夢だと理解しているのに、逃れられない。夢でしかなければ、あるいは遠ざけられたのだろうか。過去に経験した記憶の焼きまわしほど、疎ましい夢はない。


 夢のなかのキョウは何かに埋もれており、周辺の様子はよく確認できなかった。隙間から覗くものはどれも赤い。身体にまとわりつく夥しい量の血液や焔に包まれた瓦礫がれきの崖。闇を照らす紅の月盤に赤黒い雲の群れ。赤以外の色彩がすべてせていることをのぞけば、全てが過去に体験した惨劇の反芻はんすうだ。

 現実と幻想の狭間に揺さぶられて、キョウが右眼を押さえた。激しい痛みが網膜を刺す。破片が刺さったのか、単に血が浸みたのかは分からなかった。

 もう片方の腕も動かそうとしたが、何かが乗っていて持ちあがらない。確かめようと首を真横に動かした彼は反射的に悲鳴を上げた。


「ひっ…………」


 首の折れ曲がった亡骸が左肩に覆い被っていた。いや、左肩だけではない。腹には凍えた腕、右足に見知らぬ胴体、左足には頭部が折り重なっており、キョウを瓦礫がれきの底にい留めていた。息絶えた肉の塊は重く、かんたんにはどけられない。強引に腕を引き抜き、続けて肉塊にくかいを蹴って身体の上に乗っていた死体を振り落とす。

 うず高く積まれたそれらを掻き分けて立ち上がれば、強烈な眩暈めまいが突き抜けた。

 全身が痺れて、じんじんと熱を持っている。

 その場で立ち続けていることができず、キョウはまた膝から崩れ落ちてしまった。

 素肌に触れる動かない肉塊の感触。ぬめりと絡みつく体温の残滓ざんし。胃が逆流しかかったが、喉をしぼって持ちこたえた。

 周辺には凄まじい腥臭せいしゅうが渦巻いているはずだ。記憶の反芻にすぎないからか。もしくは嗅覚がすでに麻痺しているのか。臭いが追い打ちをかけることはなかった。

 痛覚、視覚、触覚。それだけを引きずって、瓦礫の崖を這い上がっていく。


「いやだよぉ……やぁ、……さまぁ……ッ」


 崖の彼方から、子供が泣きわめく声が聞こえてきた。

 甲高い声は涙で潰れており、聞き取りづらい。けれど嫌だ嫌だ、と繰り返して、誰かを呼んでいることは解った。棄てられた子供の声だ。存在意義を否定され、すべてを奪われ、壊されてしまった子供の。


「いたい、の、いやだよぉ……ねぇ、どこ……ッ」


 聞いているだけでも胸が張り裂けそうだ。


「あるじ、さまぁ……ッ」


 瓦礫の崖を登り終えて、キョウが身を乗り上げた。


 赤いばかりの画布がふに黒をいて、小さな人影が揺れている。

 あどけない裸身は血潮にまみれていた。右腕には銃を。左腕には剣を抱えているが、悪意は放っていなかった。ただ呼吸するように剣を振り上げ、虫の息ながら生き残っていた男を刺し貫く。悲鳴を上げたもうひとりの若者も銃弾で撃ち抜かれて、動かなくなった。標的がいなくなっても破壊衝動は収まらないようだ。劇場の柱を蹴り崩す。天井はすでに倒壊していたが、かろうじて残っていた壁が凄まじい音を立てて、崩れ去った。

 嫌だ嫌だとわめきながら、人形は屍と瓦礫の山を築く。


 焔に照らされた表情は、途方に暮れた子供そのものだ。

 この惨劇を引き起こした張本人だとは到底思えなかった。

 いや、実際に彼女には罪などないのだ。罪があるとすれば、彼女の精神を壊してしまった――。


「僕の、せい、か」


 意識せず、キョウが喉を震わす。

 指を掛けていた瓦礫が、がらがらと崩れ落ちた。足を掛けられるところがあったので、落下まではしなかったが、キョウは軽く体勢を崩す。踏みとどまって、あらためて身体を持ち上げる。


「ッ――――」


 不意に人形と視線が絡んだ。

 殺意のみの衝動が、キョウを標的と見做す。

 瓦礫を蹴り、人形は剣を掲げてキョウに跳びかかってきた。距離は相当にあったはずだが、瞬時に肉薄にくはくされ、避ける暇もない。キョウが身体をこわばらせたのが早いか、鋼同士が衝突する硬質な音が空気を裂く。


「ご主人さま、ご無事でございますか」


 ただひとりだけ。赤以外の色彩を持つ、彼の人形が立ち塞がっていた。

 スティレットを握っていない左腕が奇妙な角度に曲がっている。腕から滴り落ちるおびただしい量の血液は彼女自身のものに他ならない。ひどい怪我を負いながら、彼女はそれでも自制していた。小さな人形を壊さないように。

 キョウが、そう命じたからだ。


「……僕、は……」


 何度瞬いても、視界には赤しか映らない。人形が泣きわめく声が聴覚を支配して、触覚にはぬめつく瓦礫の感触があった。痛覚は未だ眼窩を犯していて、思考はまとまらない。いま、彼の意識を満たしているのは自分が人形を傷つけたのだ、という自責の念だけだ。


 傷つけてしまった。

 劇場の人形を。

 そうして、最愛の、彼だけの人形を。


「助けたかった、だけだ……それしかなかったのに」


 その言葉に偽りはない。されど過信があった。

 誰かを救えるなんて自惚れが、こんな惨劇を引き起こしたのだ。

 数多の人間を殺させてしまった。人形に、殺させてしまった。


 キョウが揃わない五指を動かして、自身の喉を握りこんだ。

 喉が乾いていた。眼窩がんかの激痛は舌の根すら麻痺させているのか、上手く発声ができない。それでも精一杯に声を張り上げて、彼は叫んだ。


「レム――ッ人形を壊せッ」


 風景の輪郭がぶわりと霧散して、赤い色彩が逆巻く。


 夢から現実に引き戻される。


 ……

 …………

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