第44譚 言うなれば、助けたかったという罪

 キョウは荒い息を吐きながら目を覚ます。

 額がべっとりと、凍りそうな汗で濡れていた。一瞬、鮮血かと錯覚したが、あの鮮烈な色彩はにじんでいない。


 振り仰げば、傍らには綺麗な人形が寄り添っていた。眉を曇らせて、悪夢にうなされる身体を抱き締めている。腕に怪我はない。人形の微かな体温が、キョウの気持ちを落ち着かせていく。

 キョウは視線を動かす。

 豪奢な細工が施された窓枠から、軒を連ねた貴族の邸の屋根が見える。黒い雲が垂れこめて、昼だというのに薄暗かった。あれからどれくらい時間が経ったのかはわからないが、それほど長くは眠っていなかったようだ。

 豪華絢爛な家具や精巧な天井画を眺めて、安堵の息をついた。

 悪夢は終わったのだ。


「また、あの夢ですか」

「ああ……、迷惑をかけてすまない」


 惨劇を忘れさせまいとするかのように悪夢は定期的に巡るのだ。

 されど悪夢などに具現せずとも、忘れられるはずはなかった。忘れてはならないのだ。忘却はゆるしに等しい。故に彼はそれを恐れ、遠ざけているのだ。赦しなど要らない。恩赦など欲しくない。砂礫されきをかみ締めるように記憶を反芻はんすうして、不眠の淵に落ちることも常だ。


 旅を始めて最初に出逢った人形は、劇場にてなぐさめものにされていた。

 不特定多数の男という猛獣に無理やり割りこまれて、尊厳を奪われるその痴態は行為そのものを知らなかったキョウに凄まじい恐怖を植えつけた。性を受け容れられるように創られていない身体が軋んで、悲鳴が迸る。けれど容赦などはしなかった。逆にそれがたのしいと言わんばかりに群衆は踊り狂っていた。


 彼女は、こんなところにいてはならない。


 劇場の団長に仕えていては、いや飼われていてはろくな顛末はたどらない。

 だから誘拐したのだ。実演の最中に飛び込み、人形を連れ去った。群集を傷つけたくはなかったので、照明を消してから、人形を抱きかかえて連れていく。主と引き離されることを察してか、人形がわめき続けていたが、構わなかった。主人が死去した場合を除いて、人形が壊れる危険性があるとは知らなかった。


 劇場から立ち去ろうとしたのが早いか。

 異変が起こった。


 人形が急に静まり返り、拘束を振りほどいたのだ。

 人形が人間とは比較にならない運動能力を持っていることは既知の事実だが、人形対人形であれば、女児のかたちをした人形がレムノリアを振りほどけるはずがない。なのに、彼女はいともかんたんに、レムノリアの腕を圧し折っていた。

 意識が混濁しているのか。人形は痛みを訴えながら、近くにいた若者に飛びかかった。暴れる相手を素手で絞め殺す姿は常軌を逸していた。

 暴走は停まることがなく、人形は劇場に集まっていたものを無差別に傷つけていく。いたいいたいと泣きながら、やめてよと訴えながら。

 キョウはただ、茫然ぼうぜんと惨劇を見つめることしかできなかったのだ。


 主の側にたどり着いた際は、すでに人形は真っ赤に染まっていた。

 人形はほっとしたように微笑んで団長に駆け寄っていく。

 人形は、主人に対する害意など持ち得なかった。人形はどんな状態に陥っても、主だけは決して傷つけない。ただ単純に抱き締めて欲しかっただけだ。大丈夫だと慰めてもらえれば、きっと彼女は、暴走した状態から我を取り戻せたはずだった。

 それなのに。


 化け物――――ッ!


 団長がそう絶叫して、人形を蹴り飛ばしたのだ。

 抱き締めてくれることだけを望んだ腕は振りほどかれ、柔らかな腹を蹴り込まれた。乱暴に突き飛ばされて壇上から転がり落ちた人形は完璧に精神を崩壊させ――。


 キョウはただ、人形を助けたかった。それだけ、だったのだ。

 しかしながらそんな言い訳は、何の意味もなさなかった。


 言い逃れるだけならば、瓦礫の隅で震えあがっていた団長と大差がない。ことごとくが壊れ、ことごとくが死に絶えているのに、人形は最後まで彼にだけは危害を及ぼさなかった。


 痛ましいほどの献身が、狂おしいほどの忠誠が。

 何故に悪意で返されなければならないのか。


「僕がしていることは何なんだろうな」


 沈黙の膜を窪ませて、キョウはため息を落とす。

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