第42譚 願うはひとつ

 問いかけられて、キョウは記憶を手繰り寄せた。

 実兄は決して、泣き言を吐かなかった。愚痴をこぼさなかった。

 けれどただ一度だけ。戸棚の隅に隠れて、泣きながら嘆きを連ねていたことがあった。一度記憶の端を引き寄せれば、未だにくっきりと輪郭を結ぶ。彼は幼かった弟に見られまいと声を殺して、身体を縮めて、とめどなく流れる涙で紺碧こんぺき双眸ひとみを濡らしていた。


 彼は、誰にともなく尋ねていた。


 なんで僕は生きているのか――、と。


 両親に要らないと棄てられてなお、何故壊れないのか。何故生き続けられるのか。虚ろな存在に何の意味があろうか。胎児のように膝を抱えて、彼は人間の惨めな性を嘆いていた。


 子宮で殺されれば、きっと人形師の兄弟は幸福だったのだ。


「……っ……それが、兄さんの望みだったのか?」


 存在意義を失ってなお、生き続けたくはない、と彼は願っていた。

 その価値観が、願望が、彼の創作物である人形に埋め込まれたのか。


「私は、人形師がどのような御方だったのかは知り得ません。ご主人さまから伺った情報を組み合わせて、想像するしかできませんが、その御方はもしや」


 虹色の双眸そうぼうが陰りを差す。


「壊れていたのではございませんか?」


 善意しか持たない人間などいない。盲目の騎士とて敵兵を斬り捨てて、祖国の為にと他者を犠牲にしてきた。悪意は希薄きはくでも、敵意や殺意は握ったはずだ。

 故に罪科つみとがに悔いていたのだ。

 純粋さで言えば、人形師はもはや異端的だ。


「そうだよ、兄さんは壊れかけていた。けれど壊れきれなかった」


 彼は死に急いでいたが、能動的な自殺は選ばなかった。

 肉親を見棄てもしなかった。けれどそれが愛情だったのか、善意からの義務だったのかは解らない。弟を育てなければならないという目的はあれども、弟の存在そのものが存在意義に繋がることは遂になかったのだ。


「必要なものは存在価値じゃないんだよ。僕らは他でもない存在意義を求めていた」


 包帯に覆われていない指をぎゅっと握り締めて、彼は続けた。


「あるいは必要なものが存在価値ならばまだ、良かったんだ。目標や役割があれば、価値は補える。僕が兄さんを必要とすれば、存在価値は産まれた。けれど存在意義はそう単純なものじゃない。必要としてくれる相手がいるだけでは、意義は、認められないんだよ。家族がいても役割を与えられても無意味だ。みずからが必要とされたいと望んでいる対象が肯定して寄り添ってくれなければ、存在意義は決して得られない」

 存在意義とは相手から与えられるものと考えられがちだ。

 しかしながら根本的には、存在意義は自身の内側から確立するものに他ならない。受動的ではなく能動的なのだ。一側性いっそくせいだが、設立させるには相手からの供給が必要不可欠だ。


「存在意義はたったひとりにしか与えられない」


 かわりはない。

 故に人間は縛られ、人形は壊れるのだ。


「それが、人形師にとってはご両親だったのですか?」


 レムノリアは静かに問いかけた。


「そうだよ。両親は、僕ら兄弟を棄てた。なのに――」

「人形師が存在意義を求めた相手は、両親以外にはおられなかったのですね」

「……僕は、兄さんがいてくれれば、それで良かったんだ。両親なんていなくてよかった。けれど兄さんはそうじゃなかったんだ。僕は兄さんの存在意義には、なれなかったんだよ」


 人形の首を抱きしめて、ぱたりと寝台に倒れ込む。

 蜘蛛の巣ひとつない天井画を眺めながら、彼はやり場のない嘆きを零す。


「ロサに存在意義を与えられなかったように……」


 言葉にすれば、なんと虚しいことか。


「っ……」


 込み上げてきた絶望をいなすことができなかった。

 濡れたそばから色彩を変えていく片側のひとみを腕で覆い、キョウはむせびながら身体を縮めた。際限なく溢れる涙の粒はしとどに清潔な布を濡らす。ひとつ、ふたつと染みが増えていくが、それを気にかける余裕などなかった。


「僕は結局、僕の為にしか生きられなくて……」


 レムノリアが睫毛を震わす。

 包帯に護られていない身体はぞっとするほどに頼りなかった。壊れものだと触れただけで理解できる。こんな脆弱ぜいじゃくな器に傷だらけの精神を収めているのかと、レムノリアは傷ましく、みずからの主人を見つめる。

 人形には慰めなど浮かばない。

 ふさわしい言葉はどれだけ考えても、みつからなかった。

 けれど彼が泣き疲れて眠りに誘われるまで、虹を秘めた人形は決して側から離れなかった。

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