第22譚 嵐の到来

 雨は徐々に強さを増して嵐の接近を知らす。

 遠くからは雷鳴がとどろいて、しきりに窓枠を揺すった。

 霞がかった薔薇園には薄紅のたまがぽつぽつと浮かんでいるだけで、あらゆるものが鮮明さを失っていた。屋敷そのものが水底に沈んでいるような錯覚をもたらす。しばらくは互いに黙り込んでいたが、ユリウスは静かに頬を緩ませた。


「人形の幸せ、か。君は人形の親みたいだね」


 キョウはそんなことはないと言いかけて、考えを改める。


「親というのはよく解りませんが」

 そう前置きをして、群青の双眸そうぼう自嘲じちょう気味に細められた。


「兄が人形の母親に等しい存在だとしたら、僕は――父親かと」


 人形を産みだせないことが、その理由ではない。もっと根本的な自責の念が宿っていたが、ユリウスには真意は通じなかったようだ。

 ふむと彼はひとつ、頷いて。


「父親か、なるほどそれは言い得て……っ……」


 ユリウスが急に心臓を押さえた。呼吸を詰まらせて苦悶くもんの表情を浮かべたユリウスに近寄り、キョウが慌てて呼びかけた。だがどう処置するのが最良なのかは分からない。急激に身体から暖かさが消えて、ユリウスは意識を手放してしまった。

 発作か。あせって揺り起こそうと、キョウが腕を伸ばす。


「ご主人様、揺さぶってはなりません」


 キョウと場所をかわり、レムノリアが手際よく応急処置を施す。

 顎を持ち上げてから頭を後ろに逸らすと完全にとはいかないが、呼吸を取り戻したようだ。着衣を緩めて、より気道を確保しやすくしてから、心臓付近を指圧していく。繰り返すうちに穏やかな寝息に変わっていった。大事にはならずに済みそうだ。


「だんなさま! どうなさったんですか!」


 乱暴に玄関が開け放たれて、プエッラが飛び込んできた。

 荷物をその場に放り投げて、揺り椅子にしがみつく。ユリウスが呼吸を取り戻していることを確認して安堵したのか、へなへなと座り込んだ。真っ青な頬は雨粒ではない雫で濡れており、小柄な顎をたどっては床を濡らす。


「あの、だんなさまを、ありがとうございます」


 涙がとまってから、プエッラが深々と礼を述べた。


「もしおきゃくさまがいなかったら、だんなさまは」

「いや、僕が無理をさせてしまったのかもしれない。すまない」


 激しい感情の起伏は体調に良い影響は与えない。喜楽ですら、悪影響を及ぼす危険性はあるのだ。悲しみならば、なおのこと体調を急変させる恐れがある。けれどプエッラは、ぶんぶんと首を真横に振るって、「そんなことはありませんです」と微笑んだ。

「おきゃくさまがいらしてから、だんなさまは嬉しそうですよ」


 レムノリアが手を貸して、ユリウスを自室に寝かす。

 投げだしていた荷物には幸い割れ物などはなかったようだ。買ってきた材料や日用品を片づけて、掃除をして、とプエッラは片時も休まなかった。

 やっと用事が落ち着いた頃には、ユリウスが意識を取り戻して、続けて世話に明け暮れていた。用事に追われながら、彼女は疲れた様子は見せない。人形だからというだけではなく、心底ユリウスの役に立てることを喜んでいるのだ。

 微笑ましく眺めながら、キョウは先ほどの会話を反芻していた。


 辛かったか、と訊かれれば、そうではない。

 キョウは、そんななぐさめなど欲しくなかった。けれど拒絶するほどではなかったのもまた、事実だ。ひとえにユリウスが善意に満ちていたからというのもあるだろうが。


「迷惑をかけてしまったね」


 ユリウスから申し訳なさそうに声をかけられ、キョウが即座に思考を打ちきった。


「いえ、処置を施したのはレムノリアなので。僕は何もできませんでした」

「心配をかけてしまっただけでも申し訳ないよ」


 ユリウスはずいぶんと体調がよくなったのか、寝室から下りてくると居室で寛ぎ始めていた。プエッラが紅茶を用意してくれて、それをたしなみながら夕食までの穏やかな時間を過ごす。二杯目の紅茶を淹れようとプエッラが席を外して、レムノリアは給仕を手伝おうと台所についていく。居室に残されたふたりには相変わらず、会話が絶えなかった。


 誰かが訪ねてきたようだ。

 玄関が数度叩かれて、声がかけられた。


「僕が応対しましょうか?」

「いや、大丈夫だよ、くつろいでいてくれたまえ」


 ユリウスが杖をつきながら玄関に向かうと、外側から再度声がかけられた。

 相手はウィタ=ラティウムの使者を名乗り、封書を届けにきた旨を述べた。キョウには解らないが、ユリウスは使者の声質に聞き覚えがあったようだ。待ち兼ねていた例の返書だと見当をつけて、ユリウスが木製の扉を開いたのが早いか――。

 剣が、ユリウスの痩せた胸を貫く。


「――!?」


 開きかけた扉の、わずかな隙間から細剣が刺し込まれていた。

 数秒遅れて、ぼたぼたと赤い血がまき散らされた。


「ぅ、ぐ……何、故……陛下」


 細剣が引き抜かれ、ユリウスがその場に倒れ込む。

 細い脚が扉を蹴りつけ、完全に放たれた玄関の向こう側には銀髪の麗人が立っていた。

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