第35譚 棄てられたこどもがふたり

「夜風は疲れた御身体にさわりますわ」


 手すりにもたれていたキョウは後ろから呼びかけられて、視線を移す。

 レムノリアが薄く微笑んで、立っていた。一陣の風が薄紫に艶めく髪を踊らす。街燈の余韻を受けて、紫とも蒼とも言えない光の粒を拡散していた。彼女は髪にさえ虹を宿していたのかと、あらためて感嘆せずにはいられない。


「こちらを羽織はおってください」


 ケープを受け取ってから、キョウは再度手すりに身体を預ける。


 明朝、街馬車が到着すれば、城におもむいて領主に謁見えっけんを申し込むつもりだ。

 繁華街から城までは距離があり、徒歩での移動は無理がある。相手にどのような取引を持ちかけるべきか、どのような交渉が効果的か、と考えながら、キョウは夜のとばりおおわれた街を眺めていた。

 客室に設けられたバルコニーは細やかなものだが、街の風景を眺めるのに不便はない。三階ということもあってか、通りに面しているのに、喧騒は全く聴こえてこなかった。

 現実と切り離されているような感覚が心地良い。


 ふと視線を動かすと、家族連れが交差点を渡っていくのが目に留まった。

 優しそうな母親に厳格そうな父親。息子はすっかりはしゃいでおり、両親の近くを走りまわっていた。有り触れた風景だったが、幸せそうな雰囲気がこちらにも伝わってきた。

 キョウがすっと目を細めて、堪えかねたように視線を外す。


「うらやましいのですか?」


 片眉を持ち上げて、キョウは薄い吐息を浮かべた。


「僕はそんな顔をしていたか?」


 虹の双眸が頷く。どうしようもない、とキョウが前髪を掻き上げた。

 もう一度家族連れを探したが、雑踏に紛れてしまい、見つからなかった。


「うらやましかったわけじゃないよ」


 そう囁く彼には、両親はいない。


 物心ついた頃には、母親はいなかった。父親もいなかった。

 母親が奏でる子守唄で眠った記憶はない。父親に優しく叱られた記憶もない。そうしたものを欲する頃には両親は側にはおらず、ただ実兄だけが寄り添っていた。

 あえて言うならば、棄てられたという絶望から彼の断片的な記憶は始まっていた。


「決して得られないものほど眩しい、それだけのことだ」


 飽きた人形を棄てるように放り出され、わめいてもすがってもどうにもならなかった。


 実兄に護られて生き抜いてきたが、当時は実兄もまだ八歳だったはずだ。二歳だったキョウよりは知恵を持っていただろうが、よく生を繋ぎとめられたものだ。呼吸する人形を創作できるようになったのは十一歳の頃。

 それまで何をして生活費を稼いでいたのか、実兄は決して語らなかった。愛されていたから大丈夫だよ――とだけ言い、柔らかく微笑んだ。三歳になったばかりのキョウには解らなかったが、いまならば想像がつく。


「僕には、兄さんがいたから」

 他に何かが必要だと思ったことはない。


「昔話をしたことはあったか?」

「いえ、詳しくは伺っておりません」


 一旦唇の端を引き結んでから、彼は喋り始めた。


「僕たち兄弟は両親に棄てられた。兄さんは両親を怨んではいけない、と常々言っていたが、僕は許せなかった。棄てられたのが僕だけだったら、よかったんだ。そうしたら何も解らないうちに息絶えたと思うから。けれど両親は僕と兄さんふたりを棄てて、どこかにいってしまった。二度と、戻ってはこなかった」


 風が吹く度に解れた包帯の端が、ぱたぱたと揺れた。

 包帯に覆われた肌には傷はない。痣や痕などの恥ずべき箇所があるわけではなかったけれど、視線に曝されたくないという自己防衛が、包帯の継ぎ目に込められていた。

 そんな包帯だらけの腕をかざす。

 肥えた月盤を隠すように。

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