第30譚 束の間のやすらぎ 前編

 石積みの壁は彼方まで続いていた。草を蹴散らしながら幌馬車は進んで、外壁に設けられた関門に到着。ここから眺めてもまだ壁は続いており、果てなどないかのようだ。馬車を停めて外壁の窓に近づいていくと、以前の門番が顔を覗かせた。


「ああ、あんたか。ユリウス殿には会えたかい?」

「はい。おかげさまで人形を購入して頂けましたよ」


 金貨を三枚、銀貨五枚。窓枠に積み上げてから、交渉を持ちかけた。

 今度は賄賂ではなく、正式な入都市費用だ。


「この金額で入都市許可は得られますか?」


 門番が頷いた。舵を稼働させると、壁に跳ねていた石橋が緩慢な速度で下りていく。

 外壁内部の水路に橋が架けられた。壁の一部が切り抜かれ、賑やかな喧騒が押し寄せる。先ほどまでは感じ取れなかった人の気配がその場に満ちた。


 幌馬車に乗り込んで壁を越えれば、精彩せいさいに富んだ風景が一行を迎えてくれた。

 整然と石畳が敷かれた本通りでは多数の馬車や群衆がしきりにすれ違い、慌ただしい。道の端には街路樹が植えられていた。群衆は基本的には街路樹の右側を利用しており、横断する際だけは車道に敷かれた赤い煉瓦レンガを踏んでいる。こうした街の構造からは、都市の規模や生活水準が窺えた。賑やかだが、華やかではない。ざっと眺めたかぎりでは裕福そうなものはおらず、誰もが仕事に追われて、時間に束縛されているようだ。


 建ち並んだ建物の窓は横に長く、様々な商品が陳列されている。最も近くにあった窓には菓子が並べられ、反対側の窓には流行の靴が飾られていた。眺めていたら、かなりの時間を費やしてしまいそうだ。キョウは食べ物を取り扱う店舗に気を取られていたが、食事をしている場合ではないと視線を引き離す。

 馬車を預かってもらえる宿屋を探さなければならない。

 さすがに首をぶらさげて、宿を訪ねるわけにはいかなかった。


「ここでじっとしていてくれ」


 旅行鞄から人形を取り出して、替わりにロサを収める。

 馬車を預かってくれる宿屋は、意外とすぐに見つけられた。

 街では適当な場所に馬車を停めるわけにはいかず、街道や野道を進む際より神経を張り詰めなければならなかった。もっとも馬をぎょしているのはレムノリアなので、キョウが神経をすり減らす必要はないのだが、人が密集している場所というのはどうにも落ち着かない。

 宿屋では取りあえず、一泊二日の予約を取った。銀貨五枚。食事は用意して貰えないが、都市の中心部とは思えない良心的な値段だ。旅人向けの商売ではなく、都市在住の客を相手にしているからだろうか。

 ついでに明朝から乗車できる予約制の街馬車とも契約を結んだ。都市は広く、徒歩で移動できる範囲には限界がある。かと言って、長旅の為に造られた馬車では何かと不便だ。街馬車だと目的地を言えば、乗っているだけで到着する。

 これからすぐに利用できれば良かったのだが、昼を大幅に過ぎると、後は明朝からしか予約が取れなかった。取りあえず明朝までに今後の方針を決めなければならない。ウィタ=ラティウムが何を画策しているのか。どのような人物なのか。情報を集める必要があった。


 休む間もなく街に繰り出す。徒歩なので、自由に散策できそうだ。

 キョウは先ほどからずっと、気持ちが張り詰めていた。包帯まみれの痩せた子供は、ただでさえ異質だ。くまを浮かばせて周辺を睨みつけていたら、なおのことであった。雑踏はあからさまに彼を避けて、通り過ぎていく。レムノリアもまた、あちらこちらから視線を受けていた。彼女はキョウとは対照的な事由じゆうで異彩を放っているので、当然と言えば当然だ。玲瓏れいろうと澄んだ宝珠のような美貌に伸びやかな姿勢。慌ただしげな群衆でさえ、振り返る美しさを有していた。

 けれどキョウが一緒にいるので、誰も声をかけられない。


「キョウさま。実は立ち寄りたい場所がございます」

「必要なものがあるのか?」

「はい。即急に」


 レムノリアが彼を急かすなど滅多にない。

 よほど大事な用事だと推測して、キョウは頷く。レムノリアに先導され、交差点を過ぎて細い路地に入り込んだ。馬車で通りがかった場所ではあるが、よく入り組んだ路地側まで把握していたものだ。もっとも一際綺麗に花壇が設けられたこの路地は遠くからでも目を惹く。かくゆうキョウも通り過ぎる際に一度振り返ったほどだ。


「ここに用事があるのか?」


 案内された店舗を観察して、キョウがいぶかしげに眉を寄せる。

 煉瓦造れんがづくりの壁に赤い屋根。洒落しゃれた建物からは美味しそうな香りが漂い、看板には銀食器カトラリーが描かれていた。レストラン以外の何物でもない。場所を間違えたのではないかと疑ったが、レムノリアは豊かな胸を張って、笑いかけた。


「左様でございますわ、ご主人さま」

「悪いが、のんびりと食事をしている場合じゃない」


 キョウが眉根を寄せ、視線を逸らす。

 身体は空腹を訴えていたが、食事をする気分にはなれなかった。


「御言葉ですが、寝食を忘れるほどに急いで、果たして現段階で何が出来ましょうか? 人形の捜索は困難を極めており、領主に謁見えっけんを申し込むにしても領主の人格を調査してからのほうが良いのではございませんか? 急いては事を仕損しそんじます。空腹状態では判断が鈍りますわ。私も空腹を感じておりますので、ここは一旦昼食を取らせて頂ければ幸いでございます」


 彼女の言葉は正論だ。それに気を遣わせてしまった。

 ゆるゆると理解して、キョウが苦笑いを浮かべながらため息を落とす。


「……食事も、必要ないんじゃなかったのか?」

「例え生命維持に不要でも必要なものはある、と申されましたので」


 銀枠に縁取られた扉を押す。愛想のいいウェイターが迎えてくれた。食事時ではないので、内部はがらんとしていて、手前側で食事を取る一組しかいない。御好きな席にどうぞ、と言われて、奥側に設けられた席を選んだ。両側が壁に挟まれているので、落ち着きそうだ。

 品書きには非常に美味しそうな画が添えられていた。ふわふわたまごのオムレツに真心を込めて煮込んだポトフ、キノコを練り込んだハンバーグなどなど。色鉛筆だけで描かれたそれらは、眺めていると食欲を増すだけではなく、暖かさまで伝わってきそうだ。


 注文を終えて、待つこと十分前後。

 運ばれてきた料理は画と遜色そんしょくないどころか、何倍も美味しそうだった。


「お待たせ致しました。完熟トマトのリゾットでございます」


 甘酸っぱい香りを含んだ湯気がふわふわと立ち昇っていた。

 疲れていても、食欲をそそられる香りだ。野菜の旨みがとけ込んだリゾットは、見るからに身体に優しい雰囲気を漂わせていた。質素な木製のさじですくうと、爽やかな香草の香りが鼻をくすぐる。香草に隠れている香りは、茸だろうか。

 熱いうちに頬張れば、柔らかな味わいが広がっていく。


「ん、美味い……」


 よく炊かれた米の間から、鶏肉がしっかりとした食感を覗かす。その後ろからは茸の歯触りが弾けて、食べるのが楽しくなるような工夫が凝らされていた。

 あっと言う間に喉を滑り落ちてしまい、キョウは匙を進めていた。


「そうか、僕は腹が減っていたのか」


 ぽつと、微かに笑いを零す。


 離別。惨劇。一夜明けてもまだ、痛みは薄れない。

 実兄が他界した際は食事など喉を通らなかった。レムノリアがいなかったら、飢えていたはずだ。いまこうして食事が取れるのは存在の重みが違うからだとは考えたくないが、慣れだとも思いたくはない。こんなことには決して、決して慣れたくはないのだ。


「食事が取れることは幸せなことにございます」


 艶やかな唇の端を持ち上げた。


「健康な証、か?」

「いいえ、生きておられる証ですわ」

「そう、か」


 リゾットを頬張り、その味わいを全身に行き渡らす。

 あることに気がついて、キョウが旅行鞄に視線を向ければ、レムノリアは即座に旅行鞄を持ち上げた。頭部だけになっても喋れるのならば、食事も取れるのではないだろうか。キョウは人形には詳しいが、内部構造までは知らない。


「胃がないのに、さすがに無理があるか?」

「肺がなくとも呼吸が可能なのですから、胃がなくとも食事は可能かも知れません。臓腑ぞうふが、いえ正確にはその機能を果たす器官が人形にあるのかどうか。それさえ私には解りかねます」


 物影になっていて、誰からも視られない角度だと判断してから、中に収められていたロサに声を掛けた。返事はなかったので、旅行鞄を開錠して取り出す。


「人形には食事は必要ない」


 並べられた料理を一瞥いちべつして、彼女は銀の睫毛を瞬かせた。

 レムノリアが指を伸ばして、これ見よがしにサンドイッチをつまむ。完熟トマトに厚切りハム、チーズやオニオン。具材がたっぷりと挟み込まれた生地は、厚みを増していた。上品に食べるのはなかなかに難しそうだ。レムノリアはパンくずを落としたりはせず、綺麗にかぶりついた。ロサは信じられないものを見るように目を剥く。


「生命維持に必要なものばかりが、真に必要なものとは言えない。心を持っている生きものならば、なおのことだ。強要はしないが、食べられそうならば食べて欲しい」


 唇の近くに匙を運んだら、ロサはわずかな逡巡しゅんじゅんを経て、口許くちもとを緩めた。程よく熱を残したリゾットが吸い込まれて、もきゅもきゅとためらいがちにそれを味わう。

 慣れない感覚に一瞬、頬が引きつる。けれど緊張は、長く持たなかった。

 睫毛の端を震わせて、恍惚と目を潤ます。


「舌が、嬉しい」


 蕩けそうになりながら、へにゃりと微笑む。

 相好を崩す彼女は、美味しいという表現すら知らなかった。


 薄々は予測していたが、産まれてから一度も食事を取ったことがなかったのか。いや睡眠すら知らずに戦い続けていたという可能性もあり、ぞっとせざるを得なかった。考えると血液が凍りそうだ。込み上げてきた憎悪を懸命に押し返して、キョウが再度料理を差しだす。

 無防備な表情を曝していることに気づいたようだ。ロサは慌てて取り繕おうとしていたが、続けて差しだされたサンドイッチの風味にまた蕩けてしまった。


「食事を取って嬉しくなったら、美味しいって言うんだよ」

「お、いしい……? おいしい、美味、しい」


 子供のように繰り返す。


「美味しい、これはとても」


 そういって、彼女は喜びを表す。騎士を殺したとは思えない無邪気さであった。

 当然のことだ。

 騎士を殺したのは彼女ではない。ロサはただ、殺させられたのだ。

 斬られた部分から食べ物がこぼれ落ちる心配はなさそうだ。

 次から次に食事を運んでいき、形なしになるほど美食に酔わせた。



【物】ではなく、【者】なのだと。

 他でもない彼女自身に理解させるように。

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