第8譚  そこは美しい薔薇の邸

 幌馬車に乗り込むと、待機していたレムノリアが手綱をさばいた。休息が得られると期待していた馬は不満げにいなないたが、鞭でいさめられて従順に車輪を転がす。

 石積みの壁に寄り添うように進んでいく。道の状態は街道とは比較にならないほどに悪く、田舎の畦道に近かった。申し訳程度にわだちが敷かれていたが、すでに草が根を張っている。最後に馬車が通ってから、かなり時間が経っていそうだ。


「にわかには信じ難かったが、事前に収集していた情報は正しかったようだ」


 群青のひとみが壁を睨みつけた。何事かを考えているかのようだ。

 都市内部は領主に保護されているが、壁を越えれば常に危険と隣り合わせだ。

 獰猛な動物が出没したり、盗賊などの野党が横行していたりと気が抜けない。同じ領主が所有権を握る領地であるということに違いはないのに、どうしてこうも違いがあるのだろうか。


 ちょっとずつ常緑樹の数が増えてきた。構わずに進んでいくと森の風景に様変わりして、岐路に差しかかった。右側に曲がり、壁から離れて、森の狭間に伸びた獣道に車輪の跡を残す。会話もなく、黙々と馬を走らせている間に森を抜けた。


 太陽が燦々さんさんと降りそそぐ野原では、白詰草シロツメグサの群れが揺れていた。

 絵葉書に描かれている田舎の原風景のようだ。野原の向こう側には細流が通っており、素朴な木橋が架けられていた。柔らかな風に乗って、馥郁ふくいくたる花の香が立ち込める。菓子よりずっと甘いそれは、薔薇の香りに他ならなかった。


「これが、例の薔薇園か。ずいぶんと立派じゃないか」

 幌から身を乗り出して、キョウが率直な感想を述べた。


 橋を越えた対岸には薔薇園が広がっていた。

 貴族の屋敷が所有しているような豪奢ごうしゃな庭園ではないが、それに引けを取らない見事さだ。植えられている薔薇の品種は多岐に渡り、一重に八重、大輪や中輪、まだらぼかし、と眺めたかぎりでも二十種類は越えていた。様々な品種が集められていると、薔薇同士が衝突して雑然となりがちだ。けれどここでは、一輪一輪が程良く自己主張をしながら、そっと寄り添っていた。

 これを見事と称えずして、何に称賛を贈るべきだろうか。

 この薔薇園を管理している庭師は、どうすれば薔薇が喜ぶのかを熟知している。どのように配置すれば薔薇が心地良く咲き誇れるかを知り、眺めているものが安らげるかを解っていた。

 完璧な調和性は交響曲シンフォニーを奏でる楽師のようだ。


 素晴らしい薔薇園の奥側には、小さな邸が建っていた。

 橋を渡りきってから馬車を停めて、キョウとレムノリアがその場に降りた。門前に取りつけられた呼鈴を鳴らす。可愛らしい調べが鳴り、間もなくして裏庭から幼い子供が走ってきた。

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