第13譚 幸か 不幸か

 西の方角に臨む森の稜線が赤く染まるまでには、時間が残されていた。

 ちぎれ雲がゆったりと流れていくのを眺めながら、キョウは微かに睫毛を震わす。雲の群はどこにたどり着きたいのだろうか。帰り着ける故郷はあるのだろうか。風に押し流され、ちぎられて、浮かんでいる意味などあるのだろうか。

 悶々もんもんとした思考を振り払うようにして、キョウが肩をすくめた。


「あの騎士は一体、何を考えているんだろうか」


 彼は露骨に眉根を寄せて、吐き捨てた。


「彼が受けた処遇はどう考えても、都市からの追放以外の何物でもないだろうに」


 英雄を慰藉いしゃする気持ちがあるのならば、都市内部の郊外に屋敷を与えるのが通例だ。

 都市の外側とは領主に所轄しょかつされていない領域であり、壁を越えれば領主の恩恵や権威は無に等しかった。都市外部に建物を建築しても税を納める義務はないが、公的な保護や支援を受けることができない。医療を受けるにも三倍以上の金額が必要となり、窃盗や傷害などの事件に巻き込まれても自己解決するしかないのだ。よって壁の外側には野党が蔓延はびこっていた。彼らが悪事を働いても裁判は起こせず、調査を依頼することも難しい。さらに言えば、都市の外側では騎士の地位や権威すら無に等しかった。固有の領地を持たない騎士は、都市を離れれば、市民が持つ一定の権利さえ与えられないのだ。


「御当人は、さほど不便には感じておられない御様子でしたが」


「あれほど優秀な人形がついていれば、生活に不便利はないだろう。けれど壁の内側と外側の隔たりは、物理的なものばかりじゃない。精神的な線引きも根深いんだ。城壁の内側に暮らすものは領主が保護すべき善良なもの。壁の外側には領主の管轄外の、不浄なもの。そうした認識は昔から変わっていない。それを知らないほどには、騎士は愚かではないはずなのだが」


 大規模な都市などでは壁の外側にも集落が点在していた。だがそうした集落は言わば、貧民街であり、主に伝染病や犯罪などで都市を追放されたものが暮らす。

 娼館しょうかんや賭博場などの法に触れる施設もまた、壁の外側に建設するという暗黙の了解があった。


「全盲の騎士など戦では役に立たない。戦えなくなった老兵を郊外の土地に追いやったのか。あるいは時の英雄がいては不都合だったのか。詳しい事情は推測の域を脱しないが、いくら好意的に受け取っても穏やかな老後を与えてやろうなんてものじゃない」


 キョウがはっと乾いた笑いを放って、肩をすくめた。


「はたしてこれが、時の英雄に対する正当な処遇か? 僕にはそうは思えないよ」


 あらかじめ隣の都市で収集していた情報に基づけば、英雄が上げた数々の功績は、しかしながら戦況にはさして影響は与えられなかった。ラティウムは敗戦同然の時局に追い込まれて、不本意な講和条約を結ばざるを得なくなったのだ。

 英雄の成果と言えば、相手の軍勢もまた非常に疲弊しており、都市を攻め落とすだけの余力を残していなかったことか。降伏を待たずに講和条約成立となったのはそれ故だ。条約の規定に基づいて、劣勢であったラティウムは領地を半分以上奪われた。だが都市が侵略されることはなかった。

 敗戦ではない。

 便宜上は降伏でもなかったが、一連の出来事は領主であったウィタ=ラティウムに屈辱的な傷をもたらしたに違いなかった。この戦争を勝利に導けていたら、英雄は優遇されていたのではないだろうか。


「都市落ち、か」


 門番の発言はかなり正確だ。

 逆に言えば、誰から見てもこの処遇は追放に等しいのだ。


「よほどに彼は無知なのか、あるいは何かを隠しているのか」


 群青が陰り、彼は強い決意を込めて喉を震わす。


「見極めなければならない」


 言葉にすれば、陰と薔薇の香りを濁らせた。

 包帯と手袋に覆われた拳はいかにももろそうだが、握り締めるちからは決して弱くない。


「彼女は幸せだろうか。あるいは不幸だろうか」


 娘のような存在だ、と騎士は微笑んでいた。その発言に偽りがなければ、それでいい。物だと軽んじて虐げていないのならば、それでいいのだ。騎士個人の事情になど何の興味もない。けれどそれが人形の境遇に影響しているとしたら、調べない訳にはいかなかった。


 人間はそうかんたんには信用できない。それがキョウの、経験による持論だ。


「もしも人形が幸せでないのならば、その時は――」


 喉を絞め上げられたように声を詰まらす。柔らかな薄絹のような斜陽を受けた頬は、痛々しいほどにこわばっている。血流が滞り、指の関節付近が青白くなりかけていた。


 虹をちりばめた双眸そうぼうが、じっと群青を覗き込む。


「壊すのは私でございます、ご主人さま」


 彼がどうしてこんなにも追い詰められているかを理解しているが為の、優しさが込められていた。

 許しと表現してもいいほどの。


 けれど彼は、それを受け取らない。


「いや、壊すのは僕だよ。僕でなければならない」


 蒼い眸を過ぎっていく幾多の感情。自責じせき悲愴ひそう、後悔、憎悪、哀惜あいせき、絶望、嫌悪――それらは、まだ幼さを残した彼が被るには重すぎた。

 厚手の外套など比べものにならない。


 包帯を巻き終わってからもレムノリアは立ち上がらなかった。

 馬を繋いで客室に荷物を運び込み、屋敷で一晩過ごす準備を整えなければならない。けれど、ふたりとも斜陽に縫いとめられたように、黄昏がせるまでは黙って視線を絡めていた。

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