第20譚 彼女は愛しい人形の娘

 雨に濡れた窓からには薔薇園が見渡せた。咲き誇っている薔薇は薄紅がほとんどだ。他には白薔薇が所々に咲き誇っているが、薄紅に埋もれる程度の数しかない。なので様々な品種があっても、綺麗に調和しているのだ。そうして薄紅は、あの人形が好む色彩であり、彼にも思い入れがある色彩であるのだろう、と推測された。


「あの、つかぬことを御伺いしますが、彼女は一体」

「彼女というと、プエッラかい?」


 ユリウスは揺り椅子に揺られて、ずっと雨垂れに耳を澄ませていたようだ。

 キョウが窓辺から離れて、揺り椅子に近寄った。「はい」とだけ返したが、それ以上は何も言わない。僕は何も知らない、と態とらしく演技することもしなかった。最低限のことしか語らず、最大限の返答を引きだそうとしている。


「彼女は【人形】だと言ったら、君は信じてくれるかね?」


 キョウはただ、無言を通す。返事がないと理解して、彼は言葉の端を繋ぐ。


「すでに四年前になるが、私はとある人形師から、彼女を譲り受けたんだ。呼吸をする人形だなんてにわかには信じ難かったが、要望通りに創作された人形は、まさしく生命を宿していた。もはや疑う余地もなかったよ。その人形は、子供のように無邪気に微笑み、妻のように寄り添ってくれたんだ。それが、彼女――プエッラなのだよ」


「人形の、娘ですか」


「いまでは人形だとは到底思えないがね。プエッラは、すでに実の娘以上の存在だよ。そう思っているから、余計にひとり遺された彼女がどうなるのか、気懸かりで仕方がない」


 目許に刻まれた皺を深めて、憂いのため息を落とす。

 人形を【物】ではなく、【者】と認識している故に。


「彼女には、孤独の痛みを与えたくない」


 遺して逝く自身の、罪深さを呪うのだ。

 戦乱の時代を生き抜いてきたということは、孤独と戦い続けたということに他ならない。

 恋情を禁じて、後継ぎを産むことすら望まず、彼は我武者羅がむしゃらに剣を振るい続けたのだ。戦場にて友情を育んでも、激戦の末にひとりふたりと物言わぬ亡骸と変わり果てていく。そんな時代を生き抜いた彼は、最愛の娘には同等の哀痛を与えたくはないのだ。


「実は陛下から、人形が欲しいとの申し入れがあったんだ。プエッラが人形だと知っているのは陛下だけだ。かくゆう陛下はすでにひとつ、人形を所持しておられるのだが、是非ともプエッラは庭師に雇用したい、と仰せになられていた。側に人形の姉妹がいれば、彼女も喜ぶのではないだろうか? そのように考えているのだが、君はどう思うかね?」


 忠誠か、妄信か。あるいは純粋さ故なのか。

 このような辺境の土地に追いやられてなお、ユリウスはウィタ=ラティウムに絶対的な信頼を置いていた。見え透いた建前を鵜呑うのみにして、最愛の娘をたくしてもいい、と思えるほどだ。救いようもない、とキョウが一瞬、眉根を寄せた。


「ユリウス殿はそれでもよろしいのですか?」

「いや、最期は彼女に看取って欲しい。私はどうせ、そう長くは生きられない。プエッラを引き取って貰うのは私の死後にしてくれないか、と伝言をたくしたが、それ以来陛下からは返信がこないんだ。陛下は御忙しい御方だからね。致しかたないが、病態が急変したらと考えると気懸かりだ。昨朝から今朝までは体調が落ち着いているが、いつどうなるかは解らない」


 彼は不意に顎を上げて、瞼の裏側からキョウを見つめてきた。

 二度と光を得ないひとみ

 人形師を訪ねてきた頃はまだ、ぼんやりとした視界を持っていたはずだ。

 薄い皮膚に隠された双眸そうぼうが透き通った紺碧こんぺきであったことを急速に思い出して、キョウが息を詰まらす。群青とは似た色相だが、受ける印象は全く異なっていた。夜の帳を重ねたような群青に晴れ渡った蒼穹あおぞらを想わす紺碧。並べれば、その違いは歴然としている。常に紺碧のひとみと隣り合わせで暮らしていたキョウは、圧倒的な隔たりを自覚していた。

 堪えかねて、視線を逸らす。どうせ、相手には解らない。


「プエッラははたして、どうしたいのだろうか? 彼女は何も言わない。意見など一度も訴えない。だんなさまが最善だと思える方法を選んでくれればいい、と言ってくれているが」


 とうとう押し黙ってしまった。

 キョウが何かを言おうとしたが、結局は喉を震わすには至らない。


「僭越ながら、よろしいでしょうか?」


 雨の韻律いんりつだけが聴こえる静寂を破ったのは、側で話のなりゆきを見守っていた人形師の護衛であった。存在は認識していたが、意識していなかったユリウスは、意表を突かれたようだ。彼女はあくまでも護衛だと思っていたので、まさか会話に加わるとは思わなかったのだ。


「最期までただ御一人に御仕えしたい。それが人形の本懐でございます」


 彼女は、凛と筋が通った声質でそう告げた。


「君は――」

「人形師に服事しておりますので」


 人形師と復唱してから、ユリウスは何事かを思い出したように頷く。


「そうだ、君たちが人形師だと知った際から尋ねたかったことがあったんだ。呼吸する人形を創作した人形師とは出逢ったことがあるかい? とても仲睦なかむつまじいご兄弟だったのだが――」

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