かつて『賢者』と呼ばれていた男の現在

 十年。日数にすれば、三千六百五十日。

 その決して短くない時間は、人一人が変わるには十二分過ぎる程の時間と言っていい。例えば、かつては英雄の一人として崇められていた大陸一の魔術師『賢者』ことルアード・アルバが女に養ってもらって生きる人種――所謂ヒモと呼ばれるゴミへと堕ちるには十分過ぎる時間と言えた。


「……で、いい加減働けってリーズに言われたわけだ」

「マジで勘弁して欲しいよ」


 ぐったりと木製のカウンターに頭を突っ伏したまま、金髪の青年――ルアード・アルバは目の前でタンブラーを磨いている女性に返事を返す。彼の座るカウンターにはグラスの一つも置いていない。単純にルアードが金を持っていないからである。


「勘弁もなにも、清々しいまでに正論でしょうが」


 女性が呆れたように言う。

 無一文なルアードがこの酒場に来た理由は至極単純で、昼間に同居人とちょっとした言い争いになったからだった。要するに逃げ場所である。


「リーズは勘違いしてんだよ」

「なにを?」

「働け、働けって……俺は働きたくないから、リーズアイツに養ってもらってるんだぞ!」

「そ、そう……。あんた、あたしが思っている以上にだいぶゴミね……」


 自信満々に言うルアードに、女性はドン引きしていた。この男、見た目以上に性根が腐っているようだ。

 そもそもの話は五年以上も無職を貫いていたルアードに、同居人の女性が「そろそろ仕事の一つでもしないか」と言ってきたことだった。

 同居人からしたら、至極まっとうな話だったのだが、ルアードは高らかにそれを拒否。本人の目の前で土下座を決め込んで、「俺を一生養ってください!」とルアードが一世一代のプロポーズをしたところで同居人がガチギレしたわけである。


「あんたみたいなゴミを養ってるリーズには同情するわ」

「言うようになったじゃないか、カナリア。十年前はあんなに可愛い町娘だったおまえが、今ではこんなに立派になって、お兄さんは嬉しいよ」


 演技丸出しな、実に態とらしい態度でそう言って、ごく自然な手つきでルアードは目の前の女性――カナリア・ルシエのほどよく育った胸を揉んだ。ふよん、と手のひらから僅かに溢れる美乳がルアードの手の中で形を変えていく。永遠にそうしていたいと錯覚しかけるほどの絶妙な柔らかさだった。


「……ルアード」


 きめ細かな茶色の髪が肩口で踊る様に揺れ、カナリアは笑顔でルアードの手を握り――そのまま慣れた手つきで揉んでいた手の指を容赦なく反対に仰け反らせた。


「痛いっ! 痛いっ! カナリアっ! 俺の指はそっちに曲がらなっ――アッー!」


 ぺきりと嫌な音が鳴る直前で、カナリアが指を離す。ふー、ふー、と痛みから涙目で指に息を吹きかけるルアードに、カナリアは「あたしは安くないのよ」とけらけら笑う。


「でも、真面目な話でどうするの? 仕事、早いとこ見つけないとリーズにまた怒られるわよ」

「そうなんだけどよ……」

「けど?」

「……ぶっちゃけ仕事探すのめんどい」


 問われたルアードは、途端に声のトーンを落として明後日の方向を向いた。

 カナリアはタンブラーを棚に戻し、呆れた顔でため息を吐き、


「あんた、一応とは言え魔術師でしょ。そっち方面なら引く手数多じゃないの?」

「ふふふ、甘い。その考えは甘いぞカナリア。それはたっぷりな蜂蜜にたっぷりの砂糖を入れた果実酒よりも甘い考えだ」

「聞くだけで胸やけしそうね、ソレ」


 大げさに、芝居掛かった口調でルアードは指を振る。


「そもそも魔術学院を退学した半端者を雇う物好きとかいないだろ。なにより俺は、・魔術師だ」


 元、の部分を強調し、ルアードは何故か得意げに鼻を鳴らした。

 世間では『賢者』などと大層な名前で呼ばれてはいるが、彼には学歴と呼べるものが存在しない。ついでに言うのなら、若い頃に魔術を学ぶ為の学院を退学したおかげで、自分を魔術師だと証明する術もなかったりする。

 魔族との戦争が終結して早十年。

 当時は英雄の一人であったルアード・アルバも、今ではただの穀潰しでしかない。


 ルアード・アルバの現在は、つまるところはこうだ。


 戦争時からの知り合いであるエルフの女性、リーズ・テンドリックに衣食住全てを養ってもらい、そのくせルアード本人は家事の一つすらしない。そんな生活も既に五年目に突入していた。

 世間一般ではヒモだのジゴロだのと言われている生活だが、ルアード本人はとても充実した生活だと堂々と言っているのだからタチが悪い。稀にリーズが癇癪を起こし、ルアードが死にかけることを除けば、だが。


「冗談抜きでクズかゴミの部類じゃないの。あんた、そのうち本当にリーズに後ろから刺されるわよ?」

「ははは、まさかそんなわけ……」


 ない、と言い切れないのがリーズという女性の怖いところだ。なにせリーズもまたルアードと同じで『五人の英雄』の一人でもある。彼女が本気を出せば、ルアードはものの数秒で生肉の塊にジョブチェンジされるだろう。

 己が未来の可能性に気づき、身ぶるいしたルアードはカナリアに語りかけた。


「……カナリア、一つ名案があるんだ。誰も不幸にならない、素敵な提案だ」


 無駄に色香のある、それでいて人好きのする微笑みをルアードは浮かべる。その表情は自信に満ち溢れ、全てを見通しているのかと錯覚する様な瞳がカナリアを見つめた。かつての『賢者』を思わせる風貌に、カナリアはほんの一瞬だけ頬を染める。

 そして、


「カナリア……俺を養ってくれ! 君だけが頼りなんだ!」

「死ね」


 控え目に言って、クズな発言をカナリアは容赦なく言葉の暴力で切り捨て、グラスを磨く仕事に戻った。それを視界に収め、「あれ? おっかしいなぁ?」などと戯言をほざきながら、ルアードはなんとなく背後を振り返る。

 酒場『ルシエ』はそれなりに広い酒場だが、現在は開店前の準備中な為、ルアードと店主であるカナリアの二人以外の姿はない。

 普段の賑やかさを知っている身としては、この静けさを新鮮と感じてしまう。

 考えてみれば、この酒場に通い始めてからもう十年も経ったのかと、ルアードは謎の感傷に浸る。


「……ま、考えときなさいよ。リーズだって、ルアードのことを真剣に想って言ってるんだから」


 コトリ、と磨き終えたタンブラーを棚に戻しながらカナリアが言った。そうだな、とルアードも小さく同意する。


「それに、いざとなったらウチで雇ってあげるわよ」

「マジで! 養ってくれるのか!」

「雇うよ! や・と・う! 働けって言ってるの!」


 ちえー、と唇を尖らせて、ルアードは椅子に深く座り直した。リーズに負けず劣らずに美人なカナリアは、幼い頃から酒場で育ってきたからか、男連中にも一切気後れしない。親しみ易い彼女の空気こそ、彼女の魅力であり、酒場『ルシエ』の売りでもあった。


「面倒な世の中だな……働きたくないやつを強要する世の中なんて、間違ってるだろ」


 何処かに自分を養ってくれるやつはいないものか、と口の中で呟き、ルアードは溜息をつく。格好こそ様になってはいるが、考えていることがクズの極みのような内容な為に、カナリアも呆れて言葉が出ない。


「あー……まあ、そういうことにしておいてあげるわ」

「かくなる上はこの甘いマスクを使って世のマダムたちに……」

「え? ごめん、なんか寝言が聞こえたんだけど。誰の顔が甘いマスクだって? なんなら鏡でも貸しましょうか?」

「泣くぞ? 割と本気で泣くぞ?」


 目元に溢れるしょっぱい水をルアードが指で拭ったのとほぼ同じタイミングで、街中に鐘の音が響き渡る。夕暮れ時を知らせる鐘の音だ。

 この鐘の音が鳴ると、肉体労働に勤しむ者たちの大半が、その日の作業を終了させる。


「あら、もうこんな時間? そろそろお店開けないと。ほら、ルアードもさっさと帰りなさいよ」

「え?」

「いやいや。もう直ぐ仕事終わりの連中が来る時間だし、お店開けないとダメでしょ」


 なに言ってんの、と呆れるカナリアを、ルアードはぽかんと間の抜けた顔で見上げる。


「……あの、俺もお客なんですけど」

「あら? ルアード知らないの?」


 弱々しく自分の立ち位置を主張するルアードに、カナリアは聖母の様な優しい笑みを浮かべて言った。


「お金を払わないやつはお客じゃなくて、冷やかしとか邪魔者って言うのよ」

「カナリア、正論ばっかり言ってると物事を見る視野が狭まるぞ」

「なら、聞きましょうか? 


 とびきりの笑顔で接客するカナリアだが、その本音は、いいから金払えだ。商魂逞しいにも程がある。

 とはいえ、ルアードの懐事情は寂しい。リーズの稼ぎだけを頼りに生活しているのだから、当然といえば当然だが、有無を言わせないカナリアの笑顔という名のプレッシャーは、既に崖っぷち(自業自得)にいるルアードの心を完膚なきまで叩き折るには十分だった。


「お水をください……」

「はい、どうぞ」


 カウンターに置かれた水の入ったグラスを見て、ルアードは再び力なく突っ伏した。くー、と腹の虫が鳴る。

 そういえば昼飯を食べそこねていた。空腹で更に力が抜けた気がする。

 しかし今のルアードには、料理を頼む金も、カナリアから無遠慮にたかる度胸もない。施しとしてカナリアから与えられたグラス一杯の水で空腹をごまかす以外の選択肢はなかった。

 魔術師だの、『賢者』だのと大層な名前で呼ばれていたが、実際は空腹をごまかすことも食べ物を生み出すこともできない。ましてや金銀財宝を生み出すことだってできないのだから、魔術師であることに何の価値があるのだろうか。とりあえず魔術師時代の付き合いのおかげで、こうして自堕落な生活ができているのは助かるが。

 ふと、昔の知り合いが言っていた話を思い出す。戦いに明け暮れていた者は、戦いがなくなることを極端に恐怖する。争いのない世界を求めて戦っていたはずなのに、戦いがない世界を彼らは受け入れることができないのだ。

 何故なら、彼らの多くは戦い以外の生き方を知らないのだから――という話だ。

 それ故に、戦争が終わって真っ先にやらなければいけないことは、戦いに明け暮れた者たちに戦い以外の生き方を与えることに他ならない。

 逆に言えば、それを怠ると仮初めの平和は一瞬にして戦火に包まれる可能性がある。

 純粋な力も持った者、何代にも渡り探求を繰り返す魔術師、研鑽を積み重ねた武術家。彼らのような常人の枠組から外れた存在にとって、平穏な世界は驚くほど居心地が悪い。

 ルアード・アルバにはそれがよくわかる。

 どれほど魔術を極めようが、人並み外れた知識を持っていようが、『賢者』と他の魔術師から呼ばれていようが、そんな能力は平和な時代においては役に立つことはない。

 『賢者』にだって、空腹を訴え続ける腹の虫を黙らせることはできないのだから。


「面倒な世の中だよ……ほんと」


 ルアードはそう呟くと、グラスに入った水を勢いよく飲み干して、立ち上がった。

 準備に忙しそうなカナリアに一声かけて、ズボンのポケットを弄れば、なけなしの硬貨が顔を出す。これが今の全財産かと思うと、無償に悲しくなってくる。このままでは酒を飲むのにも事欠く始末だ。

 リーズに金を貸してもらうためには、どんな言い訳をするべきか――真剣にそんなことを考えながら、ルアードは酒場『ルシエ』を後にした。




 夕暮れ時の城下町。

 溢れんばかりの人混みの中に、やたら目立つ少女の姿があった。

 真っ黒いマントを羽織り、古臭い木製の大きな杖を握る少女だ。

 彼女は酒場から出るルアードを見つけると、そっと気づかれない様に彼の後ろを追いかける。

 ……やたらと目立つ格好と行動の所為で、通り過ぎていく人々の注目を集めていることに、少女は終ぞ気づくことなかった。

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