『聖女』からのお願い

 ルアード・アルバの朝は時々早くて時々遅い。


「うぐぅ……あぁ……」


 朝日がベッドで眠っていたルアードの顔に降り注ぎ、ルアードは苦悶の表情を浮かべた。昨晩、面倒くさがってカーテンを閉めなかったのは失敗だったと反省する。ものすごく目が痛い。

 光から逃げる為に、もぞもぞと寝返りを打ちながら、寝相で蹴り飛ばしたシーツを引き上げて頭から被り、再び眠りに戻ろうとしたところで、


「ルアード、朝ですよ。起きてください」


 優しく、蕩けそうな声が耳に届き、ルアードは落ちかけていた意識を取り戻した。焦点の合わない目で見上げると、そこには見慣れた女性の姿がある。

 腰まで届く、美しい銀色の髪と翡翠のような透き通った瞳が印象的な女性だ。

 ほんわかとした、陽だまりにも似た笑顔と、朝の日差しで反射する銀色の髪が、童話に登場する森の妖精を自然と想像させる。事実、彼女はエルフだった。

 顔立ちは非常に整っていて、大人の女性の理想そのものと断言してもいいくらいのボディラインは、世の中の男性を虜にし、世の中の女性に喧嘩を売るだろう。そんな彼女の今朝の服装は、薄手のカーディガンにワンピースという格好だった。

 半目のまま動かないルアードを眺め、彼女――リーズ・テンドリックは困ったような笑みを浮かべている。

 ルアードは眠気から、苦虫を噛み潰したような表情で言う。


「……昨日は凄く疲れたんだ。頼むからもう少しだけ寝かせてくれ」

「でも、朝ごはんが冷めちゃいますよ?」

「朝は食べない派なんだ、俺」

「そうでしたっけ? 昨日は食べてましたよね?」

「今日だけ限定だからな」


 シーツを頭から被り、必死の抵抗をするルアードをリーズは優しく揺すって起こそうとした。力加減が絶妙過ぎて、下手をしなくてもこのまま眠ってしまいそうになる。


「今朝はカボチャのポタージュを作ったんですが」

「……まじで?」

「まじですよ」


 ぴたり、と無言の抵抗を続けていたルアードの動きが止まる。寝ぼけていた頭が起きろ、と言っている気がした。

 リーズお手製のポタージュは、ルアードの好物の一つだ。それを朝から食べられることは、この上ない幸福だ。無論、起きなければその幸福は食べられない。

 魅力的過ぎるリーズからの誘惑にあっさりと屈し、ルアードはのろのろとベッドから這いずるように起き上がる。

 その様子を見て、リーズは満足そうに笑った。

 『五人の英雄』の一人、『聖女』の名を持つリーズ・テンドリックは、重度の世話焼きで有名だ。人間も魔族も関係なしに、困っている人を見つけたら、他人のふりができない性分らしく、その美貌も含めて、変な勘違いをする男性が後を絶たない。

 しかし、そんな彼女にももちろん欠点がある。一つはやたらと真面目で、他人の嘘が見抜けず、自分から嘘が言えないこと。そしてもう一つは、この病気的なまでの尽くしたがりだ。

 とにかくリーズは他人の世話を焼きたがる。本人曰く、誰彼構わずにそうするわけではないらしいのだが、少なくともルアードに対しては過保護と言っていいくらいの尽くしっぷりだった。今日だって、作るのにやたらと手間と時間がかかるポタージュをルアードの好物だからという理由で朝早くから作っている。

 唯一の救いはリーズがお人好しの化身のように優しく、尽くしたがりではあるが、他者に依存や強制をしないことだ。ただし、世話焼きで優しい反面、怒ると非常に怖い。戦争時代、『勇者』と一緒にリーズや『姫君』のいる女風呂を覗こうとしたところを彼女に見つかった時は、怒り狂ったリーズの過激なオシオキによって、本気で死にかけたのは今でもルアードの軽いトラウマとなっている。

 そんなことを思い出しながら、ルアードは欠伸を一つ落とすと、


「そういえば、ルアード。昨日、カナリアの経営しているお店の近くで魔族が暴れたらしいですけど。大丈夫でしたか?」

「は?」


 唐突なリーズからの質問に、ルアードは反射的に動きを止めた。

 昨日。カナリアのお店。魔族。暴れ回る。心当たりがありすぎた。しかし、そのことをリーズに話すわけにはいかない。なにしろ昨日の騒ぎには、ルアード本人も一枚噛んでいる。

 魔術の無断使用をしたことが知れたら、彼女に何を言われるか。

 それに、もしも世間にそのことがバレたら、ルアードとしても困るのだ。なぜなら『賢者』などという魔術師は、この『エルギア』、ひいては『エルトリア』の大陸には、既に存在していない英雄ということになっているからだ。その為に十年の間、ルアードは必死に自分の正体を隠してきたのである。

 全ては自分の平穏で自堕落な生活の為。その為の努力は怠らない。


「ああ、すまん。なんだって?」

「もう……。昨日、城下町で魔族が暴れた事件があったんですよ」

「へぇー」


 知らないフリをして、しれっとした態度のルアードに、リーズは簡潔に説明する。概ねの内容は昨日体験したことと変わりはないが、どうやらあの時の獣人の男は、元魔王軍の一員だったらしい。

 魔王軍の魔族なら人間の魔術師嫌いにも納得できるな、とルアードは思った。


「それは大変だったな」

「そうですね。魔族は人間よりも身体能力が高いことが多いですから。今朝、お隣の人に訊いたときはびっくりしましたよ。ルアード、昨日はカナリアのところに行くって言ってましたから――」

「巻き込まれたんじゃないかって?」


 ルアードが問うと、リーズは頷く。

 過保過ぎないだろうか? とルアードは苦笑。いくら魔族といえど、相手は三流の魔族。おまけに『ヘカ』の使い方もお粗末だった。『賢者』の視点からしたら完全に格下である。そんな相手にルアードが万が一にも遅れを取るはずもない。リーズもそういうのはわかっているだろう。

 だが、『聖女』の名を持つ彼女からしたら、そういうのは関係がないらしい。


「本当に心配したんですからね。ルアード、もう長いこと魔術を使ってないですし、何かあったら私……」

「あの……リーズ? いくら俺でも、流石にそこまで弱くなってないぞ?」


 心配そうな様子のリーズに、ルアードは苦笑いを浮かべた。

 魔族の中でも長寿族なエルフからしたら、ルアードはまだまだ子供なのだろう。リーズはどこか不機嫌そうな、不安そうな表情でルアードを見返し、


「だって不安ですもん。十年前も無茶ばっかりして、何度も何度も死にかけたじゃないですか」

「……そうだっけかな?」

「そうですよ。その度に姫様を泣かせたのも、忘れたとは言わせませんよ」

「いや、それは『勇者』のアホが考え無しに毎度毎度厄介ごとに首を突っ込むからであって……」


 ルアードはバツの悪そうにリーズから目を逸らしながら答えた。あの時代、若さ故の過ち的なナニカで死にかけた回数は、両の手では数えきれないほどだったのはよく覚えている。

 治癒の魔術に長けていたリーズが居なければ、死んでいたかもしれないなんてことは多々あった。


「で、おまえは昨日のそれに俺が関係してるか知りたいわけだ」

「知りたいと訊かれたらそうですけど、無理強いしてまで訊くのかと問われたら、べつに」

「あら、そうなのか?」

「ルアードが怪我をしていないのなら、私個人はそれだけで十分です。それに」

「それに?」

「ルアードは勝手に私の前からいなくならないって約束してくれましたから」


 迷いなく答えるリーズに、ルアードは背中が無性に痒くなった。それを誤魔化す為にルアードはわざと軽口を吐く。


「おまえな……朝っぱらから、そんな恥ずいこと言うなよ。俺がうっかり惚れちゃったら、どうすんだよ?」

「え、私はむしろ全然いいんですけど?」


 リーズは恥ずかしげもない口調で言う。ある程度は予想された答えではあったので、ルアードは浅くため息を吐いた。

 なにが悲しくて朝から十代の恋愛みたいな体験をしなければいけないのか。ただでさえ美人で世話好きで家事全般が完璧なリーズのことを、異性として意識しないとかは無茶な注文なのだ。十年の付き合いがなければ、ルアードも一日ともたないで理性を手放す自信がある。


「ルアード?」

「いや……なんでもないから」


 首を小さく傾げるリーズに、ルアードは投げやりな態度で息を吐いた。

 寝不足で回らない頭を無理矢理に叩き起こし、さっさと朝食を食べようとベッドから起き上がる。このまま会話を続けていたら、変なことを口走りそうだ。眠たげに欠伸をして、部屋を出ようとした瞬間。


「――あっ! そうでした!」


 突然、動きを止めたリーズが、パンッ! と手を鳴らした。


「なんだよ?」

「ルアード、すみませんが、この後自警団の詰所に行ってもらえないですか?」

「は? なんで?」

「さっき買い出しに出かけた時に頼まれたんです。ルアードに詰所に行くように伝えてくれって」

「いや、だから誰にだよ」


 膨れ上がる不吉な予感に、ルアードはシカトを決め込もうと一人内心で決める。リーズは表情を明るくして、


「カインツですよ。カインツ・アルマーク」

「……なんで天下の『剣聖』様が俺のことをわざわざ呼ぶのさ」

「さあ? なんでも頼みたいことがあるから、だとか言ってましたけど」


 頼みたいことと言われても、ルアードには見当がつかなかった。

 なにより、『剣聖』の名を持つ彼が誰かに頼ることそのものがおかしい。はたしてどんな厄介ごとを押し付けられるのか。考えるだけでも嫌になってくる。

 シカトを決めて逃げ出したい。絶対面倒なことだ、と長年の勘が告げている。

 だが、シカトした後のことを考えると正直怖い。結局、ルアードには詰所に行くという選択肢しか残されていないのだ。


「はぁ……面倒な」


 眠気はいつの間にやら完全に消えていた。

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