狐の嫁入り ~其の壱~ 許嫁は『妖狐』!?

天生 諷

プロローグ 月の下のキス

プロローグ

 大きな上弦の月が、数多の星が散りばめられた空に引っ掛かっている。


 ビルの谷間を吹き上げてくる夏の風は生温い。不快指数の高い風に乗って、遙か眼下に見える街から様々な喧噪が聞こえてくる。


 空を見上げた男、野島健介はフェンスに手を掛けた。自分の前に存在するフェンス。このフェンスを乗り越えた先にあるのは、死だ。誰にでも訪れる死を自らの手で引き寄せ、その中に身を投じようとしている。誰もが忌諱(きい)する死を欲し、今まさに指先を掛けようとしている。


「晴海……」


 半年前、交通事故に遭い死んだ婚約者の名を呼んだ。


 目を閉じれば、目の前にいるかのように晴海の笑顔を思い浮かべることができる。少し鼻にかかったハスキーな声、周囲を憚らない大きな笑い声。


 晴海とは長い付き合いだった。高校時代に付き合い始め、大学生の頃に将来を約束し合った。大学卒業後、商社に就職して四年。一人前の社会人になり、結婚資金も貯まった。晴海を迎え入れる準備が整った矢先のできごとだった。


 相手ドライバーの不注意。たったそれだけのことで、信号待ちをしていた晴海の命は絶たれた。


 あまりにもあっけない幕切れ。


 あの日以来、健介から感情が消えてしまった。悲しいと思う気持ちさえも、失ってしまった。


 晴海の死は自分の死と似ていた。あれ以降、仕事も手に付かず会社を辞めた。もう必死に働く意味がないからだ。仕事に生きがいを感じないし、金を稼いだ所でこれといった使い道も思いつかない。何に対しても興味を持てないし、生きる気力を取り戻せない。


 だからなのだろうか。晴海の死んだ交差点がよく見えるこの場所を死に場所に選んだのは。


 健介はフェンスに足を掛けて登っていく。高さは約三メートル。成人男性なら簡単に上れる高さだ。


 これまで死を身近に考えたことがなかった。晴海が死んで、初めて生の隣に死がある事を知った。分かっているつもりだった。そんな事、小学生だって分かっていることなのだ。だが、人は死を考えないようにして生きている。死を考えてしまったら、生が無為なものになってしまうからだ。


 死は全てを葬り去る。本人の意志は元より、世界を消し去る。


 健介の世界は健介のものであり、晴海の世界は晴海だけの世界だった。


 晴海の中にいる健介は、晴海の構成する世界では婚約者というキャストの一人だ。晴海が死ねば、彼女の主演する舞台は幕を閉じる。晴海の世界は消えるのだ。


 この世界は壮大な夢。誰もが見る夢。各々が様々な夢を持ち寄って世界を構成している。だから人は死を考えない。死を考え、悟ってしまったらこの世界には何も残らない。努力して手に入れた名声も、財産も、死ねば全て失われる。あらゆる事が死をもって精算されるからだ。この世界は、所詮主観で描かれる物語であり、この世界で手に入れたものは死によって全て失われる。


 だから健介は死を選ぶ。死ねば全てを精算できる。やり場のない怒りも、悲しみも、晴海も忘れられる。


 フェンスの上部に手を掛けたとき、背後の鉄扉が勢いよく開け放たれた。


「わ~~~~! 待った待った待った待った待った! ちょっと自殺は待った!」


 けたたまし足音が近づいてくる。振り向くよりも先に、健介の裾が誰かに掴まれ、力の限り引っ張られた。


 バランスを崩した健介は背中から屋上に落ちた。


「ちょっと! 早まらないで! そんな事したら、この人が悲しむ……! というか、俺が困る! マジで! ホントに!」


 ゼーゼーと肩で息をしながら、青年は肩に手を置いた。


 年の頃は高校生くらいだろうか。胸が晴れるような清々しい笑顔に白い歯が輝いている。額には玉のような汗が浮かんでおり、彼が健介を止める為にビルの階段を走ってきたのが見て取れた。


 青年はポケットからボロボロになった汚れた櫛を取り出した。


「ハァ、ハァ……これを……ハァ…」


 呼吸を整えながら、青年は健介の手に櫛を持たせる。櫛を月光に照らした健介は息を飲んだ。健介が口を開くよりも先に青年が頷いた。


「晴海さんの櫛です……! 柘植(つげ)の櫛っていうんですか? 就職して一年目の夏休み……、二人で京都旅行に行った時に買ったものですよね?」


 青年は大きく息を吸って呼吸を整える。


「ああ……何処でこれを?」


 確かにこれは晴海の櫛だ。四年前の夏休み、京都で買ったものに間違いない。その証拠に、櫛の裏側には晴海の名前が彫ってあった。掌に収まってしまうような小さな柘植の櫛。丁度、夜空に浮かぶ上弦の月と同じ形をした櫛だ。


 これは晴海がいつも持ち歩いていた物で、何処を探しても見つからなかった。


「交差点際の側溝に落ちてました。……晴海さんが教えてくれました。これを渡せば、自殺を思いとどまってくれると……」


「晴海が? なんでお前が晴海のことを?」


 健介は、突然現れた青年に訝しい眼差しを向ける。


 ひょろりとした体に幼さの残る童顔。普段は整えられているであろう髪も、ビル風と汗にまみれて乱れている。十人並みの容姿で、格好いいとは言えない青年だが、見ているだけでワクワクするような、宝石のように光り輝く瞳を持っている。


 目の前で息を切らせる青年は何者なのだろう。彼は見計らったかのように自殺を止めに来た。彼は自殺しようとする自分を偶然見かけたのではなく、晴海が自殺する事を教えてくれたと言っていた。


「答えろ、どうして晴海のことを知っているんだ!」


 何故、この櫛を彼が持っているのだろう。


 空洞のようにポッカリと穴の開いた胸に、久しぶりに感情が沸き上がってくる。それは、生きるという意志に最も強く作用する感情、怒りだ。


「おい! 応えろ!」


 知らずのうちに声を張り上げていた。キョロキョロと周囲を見渡していた青年は、健介の剣幕に驚いた表情を浮かべた。


「あ……あの………」


 頬を引きつらせる青年。彼はジリジリと後退する。


「お前は晴海の何を知っている!」


「晴海さん! ちょっと……! あの、健介さん、これを見て…!」


 青年は晴海の名を叫ぶと、徐に何かを取りだした。月明かりの下に取り出されたのは、新型のスマホだ。彼はスマホの画面を指で操作するが、その画面はブラックアウトしたままウンともスンとも言わない。


「ああ~! クソッ、マジかよ……こんな時に充電切れッ! 八意(やい)のヤツがバカみたいに重いアプリを入れるから……!」


 青年はブツブツと言いながら、スマホの側面を苛立たしそうに叩くが、やはり電源は入らない。彼は滴る汗をそのままに、こちらを見て引きつった笑みを浮かべる。


「晴海さんに頼まれたんだ! アナタの自殺を止めてくれって!」


「晴海は死んだ!」


 「知ってるだろ!」怒りにまかせて叫びながら、健介は青年の胸ぐらを掴み上げる。青年が「ぐぅっ」と息を詰まらせる。


「お前は晴海を殺した奴の親族かなにかか!」


 青年を力の限り投げ飛ばす。彼は盛大に屋上の上を転がる。青年の手にしていたスマホが屋上の上を滑った。


「ツッ……!」


 彼は自分の体を庇わず、肩に掛けたバックを抱きしめていた。


 見ると、彼の胸に抱いたバックから、一匹の動物が顔を覗かせていた。一瞬、白い犬かと思ったが、よく見るとそれは犬ではなかった。狐だ。白い毛に赤い瞳をした子狐がバックから顔を出してこちらを見つめている。


 コンッ


 狐が一声鳴いた。


 ブブッと鈍いバイブレーションの音がスマホから聞こえた。今までブラックアウトしていた画面から光が溢れ出した。


 青年は這うようにしてスマホを手に取ると、なにやらアプリを立ち上げて画面を見つめる。写真を撮るかのように、青年はスマホのカメラをあちこちに向けると、丁度こちらを向けて止まった。掲げたスマホから顔を覗かせた青年は、画面を横目で見ながら訴えるように話し出した。


「落ち着いて聞いて下さい! 晴海さんが言っています……。柘植の櫛を買ってくれたときの言葉を覚えているかと……」


 健介は青年から目を逸らし、櫛を見つめる。ボロボロになった櫛。忘れもしない、あの時の言葉だ。


「何があっても、君を、晴海を幸せにすると……」


 画面を覗き込んだ青年は頷く。


「晴海さんはこう返しましたよね。私も貴方を幸せにする、って。だけど、晴海さんは健介さんを幸せにできなかった。だから、ごめんなさいって言ってる」


 青年は画面から健介に視線を移す。


 何が何だか分からなかった。何故、彼は晴海と交わした約束を知っているのだ。彼は、死んだはずの晴海と会話ができるとでも言うのだろうか?


「君は、一体……?」


 いつの間にか、怒る気力は萎えていた。必死の表情を浮かべる彼が、人を馬鹿にしているようには見えなかったからだ。何より、彼はこの失われた櫛を取り戻し、晴海との約束を知っている。


「晴海が見えるのか……? 彼女は、此処にいるのか?」


「………ええ」


 青年は再びブラックアウトしたスマホをポケットに戻す。戸惑った表情で健介を見つめる。


 その時、青年のバックから子狐が飛び出した。


 月光を受けて白銀に輝く毛。優雅に歩く狐は、こちらに語りかけるように赤い瞳で見据えてくる。


 子狐は月に向かって一声叫んだ。


 コンッッッ!


 狐の一鳴きがビルの谷間に響くと、コンクリの地面から光の粒子が滲みだしてきた。雪のように細かい光は、周囲を優しく照らしながら空へと上っていく。


「そんな……嘘だろ……? 晴海……! 晴海なのか?」


 奇跡が起きた。目の前に晴海が浮かび上がった。月光を纏ったかのように、淡く輝く晴海。死んだときと同様、スーツ姿の晴海はこちらを見つめて微笑んでいた。


「健介、死ぬなんて考えないで。私の代わりに生き続けて。この世界は、こんなにも光に満ちている。不条理なことも沢山あるけど、いい事も沢山ある。私は、沢山のいい事を貴方にしてもらった。恩返しはできないけど、私は貴方の心にいつもいる。貴方の中にいる私まで、殺さないで……」


「晴海……」


 健介は手を伸ばすが、晴海の体に触れることは叶わなかった。彼の手は晴海をすり抜け宙を掻いただけだった。


「私の分まで幸せになって。きっと、この先にはいい事がある。いい人にだって出会える。だから悲しまないで。私はとても幸せだったから。健介と一緒にいられて、幸せだったから」


 晴海の瞳から涙が一筋落ちた。晴海の体が光となって消えていく。


 健介の瞳が見開かれた。


「待ってくれ……! もう少し、もう少しだけ……」


 晴海は優しく微笑んだ。そして、闇に溶けるようにして晴海は消えた。


 健介は櫛を握り締め嗚咽を漏らした。


 どれくらい経っただろう、顔を上げた健介は屋上に一人だった。あの青年も、白い子狐の姿もなかった。


 健介は月を見上げ、フェンスを見上げ、自殺するのを諦めた。


 此処で死んでしまったら晴海を悲しませる。心の中の晴海まで、殺すわけにはいかなかった。


 健介の世界で晴海の出番はなくなってしまったが、健介の舞台はまだまだ続くのだ。この世界で、健介はまだ生きていかなくてはいけないのだ。



「これでいいのか?」


 土御門典晶は、バックに入った子狐、イナリに向かって尋ねた。


 コンッと一声鳴いたイナリ。恐らく、「問題ない」と言っているのだろうが、何せ相手が狐なので意思の疎通ができない。


 イナリに聞こえないよう、典晶は深々と溜息をつく。


 典晶が乗っている道は、光の届かない暗い道だった。足元さえ見えない道。不用意に足を踏み出せば、何が起こるか分からない。奈落へ落ちるか、業火に焼かれるか。もしかすると、切り刻まれるかも知れない。


 森の中を貫く一本の道は、今の典晶を象徴しているかのようだった。後戻りできない細い道。両脇からは手の入ってない木々が道に覆い被さるよう広がっている。空に見えるはずの月光も、新緑の木々に遮られ、まばらな光を届けるだけだ。


 密度の高い薄闇は、体にまとわりついてくる。泳ぐように闇の中を進む典晶の目に、月光を反射する水面が見えてきた。森を抜けた先にあるのは、夜叉ヶ池と呼ばれる小さなため池だ。


 道は夜叉ヶ池を迂回するように、左右に分岐していた。この夜叉ヶ池を抜けると、ちょっとした住宅街がある。そこに典晶の家があった。


 夜叉ヶ池の前に立った典晶は、暗鬱な気分で湖面を見つめた。今は夜だから分からないが、昼には透明度の高い水に泳ぐ魚の群れを見ることができた。ユラユラと揺れる湖面。眺めていると漆黒の水面に吸い込まれそうな錯覚を感じる。


 典晶は目を閉じて首の後ろをさする。健介に突き飛ばされたとき、強かに首を打ち付けてしまった。軽いむち打ちにでもなったのだろうか、少し違和感を感じた。肩に提げたバックから顔を覗かせたイナリが心配そうにこちらを見上げている。


「お前のせいじゃないよ……」


 そう呟いてみるが、イナリは答えない。こちらの言葉を理解しているのか、それすらも分からない。


「誰のせいでもないよ……たぶんね……」


 典晶のやったことは、きっと人助けなのだろう。死んだとはいえ、彷徨う晴海の魂を救うことができたし、健介の自殺を止めることができた。ただ、その理由は典晶とイナリの都合、土御門家の都合だが。


 典晶はポケットから一粒の宝石を取り出した。小指の先ほどの正六角形の宝石。ダイアモンドのように輝いているが、その宝石の中を覗き込むと紫色の光が揺らいでいる。


「これが宝魂石……まさか、本当に幽霊から取れるなんて……」


 典晶は宝魂石を月に翳す。


 山崎晴海が成仏の祭に生み出した宝石。人の命の結晶が手元に存在している。


 ボンヤリと宝魂石の中で揺らめく光を見ていると、バックに入っていたイナリが突然飛び出した。


「イナリ?」


 イナリの口には宝魂石が咥えられていた。イナリは細い口を月に向けると、それをコクリと飲み込んだ。


「あっ! おい! それは食べ物じゃ……!」


 言いかけた典晶の言葉が止まった。


 ドクンッ


 イナリの鼓動が大気を揺らしたようだった。月光を受けて銀色に輝くイナリが一声吠えた。


 コーーーーンッ!


 その声が引き金になったかのように、先ほどまで静かだった森の鳥たちが一斉に騒ぎ出した。


 イナリの姿が光に包まれる。子狐の姿が次第に崩れ、人の姿へと変化した。


 典晶は言葉を失い、口をポカンと開けた。今日一日で人生が覆るような体験をしてきたが、今、目の前で起きたことはそれら全てを凌駕していた。


「マジかよ……」


 典晶は腰を抜かし、その場に尻餅をついた。自分の頬をつねってみても、夢から覚める気配は一向にない。間違いなく、目の前で起きている変化(変化?)は現実のものだ。まだ生まれて十七年しか生きていないが、断言しても良いだろう。金輪際、これ程驚く事は後にも先にも無いだろう。


「やっと話ができるな、典晶」


 数秒前まで子狐だった女性、イナリが鈴の音のように可憐な声を発した。


 足元まで伸びる白い髪は月光の光を湛えており、透き通るような肌はうっすらと輝いているかのようだった。切れ長の目にスッと伸びた高い鼻。少し大きめの口には艶っぽい笑みが浮かんでいる。


 一糸まとわぬ姿のイナリは立ち上がると、驚いて声も出せない典晶に近づいた。肩口から垂れ下がる長い髪に女性の大事な部分は隠されていたが、それでも隠しきれない体のラインは美しいの一言に尽きた。


 裸足で下草を踏みしめ、こちらに近づいてくる。


 蛇に睨まれたカエルのように、典晶の動きが、呼吸が止まった。


 イナリの手が典晶の顎に触れた。ヒンヤリと冷たい陶磁器に触れたような感触だ。首を左側に傾けてイナリが微笑む。


「愛しているぞ、典晶。どうか、儂を妻として迎えてくれ」


 イナリは甘く囁く様に告げると、目を閉じて典晶に顔を寄せてきた。


 ピクリと体が震えただけで、典晶は動けなかった。


 イナリの唇が典晶の唇を奪っていた。


 甘いとか酸っぱいとか、そんな事を考えている余裕はなかった。頭の中は真っ白になり、顔が焼けるように熱い。緊急停止した頭だったが、生々しい唇の感触だけはやけに鮮明だった。


 ゆっくりと引きはがされる唇。イナリは典晶の唾液で湿った唇を赤い舌でペロリとなめた。


 土御門典晶。高校二年生の十七歳。夏休み前にファーストキス。その相手は絶世の美女、葛ノ葉イナリ。ただし、相手は人間ではなく仙狐だった。

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