九話

「強くて邪悪な霊力を感じる」


「邪悪な霊力? 凶霊か?」


「その凶霊だな」


「成仏させられるのか? 那由多さんの言っていた通り、手を出さない方が良いのかな?」


 文也が尋ねる。


「無理だな。いまの私じゃ成仏させられない。デヴァナガライの那由多が言った通り、近づかない方が賢明だな」


「でも、何とかできるんだな」


「彼ならば可能だろう。だが私達が近づくのは止めた方が無難だ」


「そんなに危険なのか?」


 ゴクリと唾を飲み込む。


「でも、相手は幽霊なんだろう? こっちが触れないんだから、向こうだって触れないだろう?」


 文也の言葉にイナリが首を横に振る。長い銀髪がサラサラと音を立てる。


「それだと凶霊も問題ないのだがな。幽霊とは人の魂だろう? なら、生きている人間にも魂がある」


 スッと伸びた指先が典晶の胸を突く。僅かな力が掛かっただけなのに、典晶の上体は後ろへ押され、後ろ手を突いてしまった。


「幽霊や凶霊は、人の魂に直接干渉してくる。意味が分かるか?」


「つまり、体は平気だけど魂をやられるって? それって、だいぶヤバイんじゃないのか?」


 月光に照らされる文也の表情が俄に青ざめて見える。


「その通りだ。だから、凶霊には近づかない方が良い。幽霊だってそうだ。ヘタに接触したら思わぬしっぺ返しを喰らう」


「宝魂石を取るのも大変だな。幽霊を成仏させなきゃいけないしな。どうしても接触する必要があるだろう?」


「成仏じゃなくとも、浄化でも構わない。宝魂石を取るだけなら、それだけで事足りる。………本来、妖怪とはそうして人の魂を喰らってきたのだからな」


 ゾッとした。典晶は驚いた表情でイナリを見た。彼女の浮かべる冷笑は、月の冷たい光の下で凍るようだった。


「妖怪は、本来人の魂が生み出す宝魂石を糧としている。人が牛や豚を殺して糧にしているのと変わりはない。ただ、対象が人になっているだけだ」


「……お前もそうなのか?」


「私は一応これでも神の眷属だからな、生命を繋ぐのに宝魂石は必ずしも必要ではない。歌蝶母様もそう。鬼女とは言っても神に近い鬼神という存在だ。だから、宝魂石がなくとも命を繋いでいける。

 だが妖怪は違う。宝魂石というのは、妖怪が生きていくのに必要なもの。今の私にもな。宝魂石を集めて神力を高めれば、ずっと人の姿でいられる。この姿のまま、典晶と一緒にいられる」


 こちらを見てイナリは微笑むが、これには答えられなかった。典晶はプールに浮かぶ月を見つめた。


「浄化と成仏って違うのか?」


 暫くしてから典晶は口を開いた。もし浄化と成仏が同じなら、浄化した方が手っ取り早く片を付けることができるだろう。だが、イナリの口からでたニュアンスから、浄化からはあまりいい感じがしない。


「違う。成仏は人の魂を光へと導き、輪廻の輪へと戻して新たな命として転生される。だが浄化は消滅だ。その後には何も残らない。浄化と成仏、どちらを優先させるかは典晶に任せる。私の神通力を使えば大概の幽霊は一発で浄化できる」


 イナリの言葉を最後に、沈黙が落ちた。


 典晶は手を組んで静かな水面を見つめた。典晶が答えを出すのを、イナリと文也は静かに見守っていた。


「……浄化は、止めよう……」


 溜息と一緒に典晶は呟いた。昨夜、晴海を見て思ったことがある。人は死んでも何かを成し遂げたい、誰かを守りたいと思っているのだ。その思いを踏みにじってまで、イナリに宝魂石を差し出す必要はないだろう。時間は掛かるかも知れないが、救える幽霊を救って宝魂石を手に入れた方が、心残りが少なくてすむはずだ。


「………」


 イナリは黙って典晶を見つめていた。一刻も早く人の形になりたいイナリにとって、典晶の言葉はショックだったのだろうか。もしかすると、まどろっこしいと怒っているのかも知れない。


「流石だ典晶。それでこそ私の夫に相応しい。やはり、私の目に狂いはなかった」


 ニコリとイナリは微笑む。その笑顔は氷のように美しい冷笑だったが、何故か典晶の心には熱く響いた。


「時間ならまだ沢山ある。満足のいくように宝魂石を集めよう」


 イナリの言葉は典晶の肩にのし掛かる重荷を少し軽くした。「ありがとう、イナリ」そう言ったとき、水面の月が不安定に揺らいだ。



 パシャンッ パシャンッ パシャンッ



 どこからともなく水を掻く音が聞こえてきた。


「来たようだな」


 スクとイナリは立ち上がる。


 典晶も立ち上がると、携帯を取り出しソウルビジョンを起動させた。右から左にプールを見ていくと、丁度プールの中央辺りで泳いでいる少女の幽霊がいた。彼女は、左から右へとクロールで泳いでいく。


「文也、行くぞ。イナリは月光の下から出るなよ!」


 そう言いつけて典晶と文也はプールサイドを駆けた。


 水面を見ると水が跳ねているだけで少女の姿は見えない。だが、ソウルビジョンを通せばそこに少女が泳いでいるのが分かる。ゴール地点に先回りした典晶は、少女が到着するのを待った。幽霊との接触が二度目と言う事もあり、前のように驚いたりはしなかった。


 少女がゴールし顔を上げたとき、ソウルビジョンを覗き込んでいた典晶は声を掛けた。


「初めまして土御門典晶です。突然ですが、アナタの心残りって何でしょうか?」


 携帯の画面から顔を外し、ニコリと微笑む典晶。再び携帯を見ると、少女が水面から顔を覗かせキョトンとしてる所だった。ややあって、少女は典晶に向かって呟いた。



「先輩に伝えたいことがある。先輩に、私の泳ぎを見て貰いたい……」



 それが少女の幽霊。中西玲奈の願いだった。

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