十一話


 ザーー


 ザーーー


 ザーーーー


 遠くから雨音が聞こえてきた。

 湖を見るが、雨は降っていない。波紋一つ立たない湖面には、抜けるような青空が映り込んでいるだけだ。

「…………」

 おかしな感じがした。この湖に何かがあるのだろうか。

 吹き出す油汗を拭いながら、典晶は湖面を覗き込んだ。鏡のように反射する湖面に映るのは、冴えない自分の顔だけ。流れた汗が、鼻先から一滴、湖面に落ちた。澄み切った湖面に、ほんの小さな、ノイズのような波紋が生じた。波紋は放射状に滑るように広がっていく。


 雨の音が聞こえる。


 頭痛がする。


 体が焼けるように熱い。


 典晶は木に凭れ掛かると、少し目を閉じた。


 やはり、雨音が聞こえてくる。


 雨の香りもした。


 だんだん、雨音が大きくなり、典晶を包み込んだ。


 冷たかった。凍えるように冷たかった。

 吐く息は白く、指先はかじかんで動かない。濡れた場所から凍っていくかのような感覚だ。

「寒い……」

 典晶は震えた。

 激しい雨。

 深い、深い森の中。

 日が暮れたそこは暗く、雨音以外何も聞こえない世界だった。

 名も知れぬ巨大な大木の洞に逃げ込んだはいいが、視界全てを覆い尽くす闇と雨の中では、身動き一つ取れなかった。

「…………」


 寒い……


 怖い……


 震える体を止めるように、三角座りした典晶は膝を抱えた。


 クゥン……


「大丈夫だよ、イナリ」

 膝とお腹の間にいる白い狐、イナリが震えていた。典晶はイナリを抱きしめ、頬ずりした。いつもは暖かい体が、氷のように冷たい雨に打たれ、すっかり冷えてしまっている。

「大丈夫だから……心配しないで。大丈夫だよ」

 典晶はシャツの下にイナリを入れると、襟から顔を出した。イナリは嫌がりもせず、典晶の為すがままになっていた。

「ホラ、こうすると暖かい」

 典晶は笑おうとしたが、冷えて固まった顔はただ引きつっただけだった。

 怖いし、寒い。だけど、典晶は一人ではない。イナリが一緒にいる。だから大丈夫だ。この雨が止むまで、この闇が晴れるまで、典晶は耐えることができる。

 イナリがペロリと頬を舐め、唇を舐めた。典晶は笑うと、もう一度強くイナリを抱きしめた。

「何も心配要らない。イナリも、僕と一緒なら怖くないだろう? 僕も、イナリと一緒なら怖くない。イナリは僕が守るよ。何があっても絶対に。だから、心配しないで、ね」

 イナリは典晶の言葉が分かるかのように、コンと、大きく鳴いた。



 …………あき …………あき!


 ……のり……あき……!


 …の…り…あ…き……!


「典晶! しっかりしろ!」

 典晶はハッと目を覚ました。目の前にはイナリの顔があった。

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