十二話

「………」

 典晶は何が起こったのか瞬時には理解できず、イナリを見つめ、そして、周囲を見渡した。雨は降っていない。空には、先ほどと同じ青空が広がっていた。

「常世の森……?」

 揺れる視界。典晶は一度目を閉じ、深呼吸して頭をリセットする。

「そうだ。どうして典晶が此処に……?」

「どうしてって……、イナリを探しに……」

 典晶は上半身を起こした。

 今日のイナリは伝統的な巫女装束、白衣に緋袴を身につけていた。白い髪に白い肌、赤い瞳にその姿はよく似合っていた。彼女は巫女装束が汚れるのも気にせず、森の中に腰を下ろして典晶と同じ目線でいてくれた。

「危険なまねを……! 常世の森は、高天原商店街とは違うんだぞ! 妖怪の類だって沢山いる。此処にだって、妖怪が沢山いるんだ……! もし、典晶になにかあったら……」

 イナリはホッと溜息をつくと、目頭を押さえて、イヤイヤするように頭を横に振った。

「イナリ……ゴメン……」

「大丈夫だ、典晶が無事なら、それで……」

「違うんだ!」

 典晶は大きな声でイナリの言葉を遮った。

「違うんだ、イナリ。俺は、イナリに謝りたくて常世の森まで来たんだ……」

「謝るって、何をだ? 典晶は、何も悪い事はしていないだろう?」

「したよ! したんだよ!」

 典晶は唇を噛んだ。真っ直ぐな瞳。穢れない、こちらを信じ切っている眼差しから逃れるように、典晶は握り締めた拳を見つめた。

「俺は……、何の力も勇気も無いくせに、美穂子や理亜を助けたいなんていって、イナリに迷惑を掛けた。俺たちは、まだお互いをいらない。俺は、自分の我が儘にイナリを付き合わせて、イナリの一面を見て、一方的に距離を取ってしまった。

 もし、俺がイナリ達の忠告通り凶霊を無視していれば、イナリの一面を見ずに、過ごせたかも知れない。いや、もっと時間を掛けて信頼関係を築けていれば、イナリの一面を見ても、距離を置こうとは思わなかったかも知れない」

「気にはしていない。私に取って、やっぱり典晶は一番だ。どんな状況だろうと、私は典晶を助けようとする。他を切り捨てる私を見て、典晶が幻滅するのは分かっていた。典晶は、優しいから……」

「違うんだ。俺は、イナリが俺のことを想っているのを知っていた。俺は、自信がなかっただけなんだ……! 他人の命を切り捨ててまで、イナリは俺を好きでいてくれる。だけど、俺は、顔もイマイチだし、頭だって良くない。秀でた特技だって無い。口下手だし、服のセンスだって悪い。自信が無いんだよ、イナリがあまりにも眩しくて、大きな存在で……。

 俺だって、何かができる。イナリに見返してもらえる……。凶霊を何とかしようと思ったのも、美穂子や理亜を助けたいと思う気持ちの他に、自分の価値を高めたいと思ったんだ」

 ポツポツと、典晶の口から言葉が漏れる。イナリへの謝罪ではなく、自分の本当の心の内をさらけ出す。嫌われてもいい、ただ、典晶は本当の自分をイナリに知ってもらいたかった。

「…………」

「ゴメン……! 俺は、こんなに小さな男なんだ! イナリに惚れられるような男じゃないんだ!」

 典晶は土下座をした。腐葉土に額をつけ、イナリに何度も謝った。

「ゴメン! 本当に、ゴメン!」

 イナリは何も答えない。

 典晶か何度か謝ったとき、頭上からイナリの溜息が聞こえてきた。

「何を言っている」

 スッと典晶の視界が暗くなった。白衣の袖が典晶の視界の左右を塞いでいた。

「そんな事、言われなくても分かっていた。分かっていて、私は協力したんだ。言っただろう? 典晶の友人は私の友人。典晶が彼女たちを守ると言ったら、どんな理由であろうと、私が守るのは当然だと。最も、私の力は及ばなかったけどな」

 背中に温もりが感じられた。イナリが覆い被さっているのだ。

「だけどさ……!」

「だけどはいらない。私にそんな言葉は必要ない。典晶がどんな思いや考えがあったとしても、私は私の判断で行動しただけだ」

「だけど」

「必要ない」

 イナリの優しい言葉が振ってくる。それだけで、許された気持ちになる。事実、イナリは全てを受け入れ、赦してくれる。結局、典晶はイナリに甘えてばかりだ。

「それでいいんだ。典晶がありのままの自分の気持ちを私に打ち明けてくれた。それだけで、私は嬉しい……」

「イナリ……」

 イナリが背中から離れ、典晶も頭を上げた。イナリの赤い瞳から、一筋の流れる光があった。流れ星のように、白い肌を滑り落ちる涙。それを見た瞬間、典晶の胸は締め付けられるように苦しくなった。

 こんなにも惨めでだらしない自分を、まだイナリは好いてくれている。その事に対する喜びと、申し訳なさが込み上げてくる。イナリの気持ちに答えたい、答えてやりたいが、それ以上を口にできなかった。

「ありがとう……イナリ……」

 気がつくと、典晶まで涙を流していた。色々話したいことがあったはずだが、イナリの顔を見た瞬間、様々な思いは吹き飛んでいた。彼女が笑ってくれる。それを一目見られただけで、常世の森まで来たかいがあったと言う物だ。

「典晶、お前まで泣いてどうする……」

 イナリは白衣の袖で自分の涙を拭うと、典晶の涙も拭ってくれた。典晶とイナリは恥ずかしそうに笑いあった。

「典晶、そろそろ日が暮れる。村に帰ろう。如何に母様の神通力で守られていると言っても、夜は危険な妖も現れる……」

 いつの間にか、空はオレンジ色に染まりかけていた。典晶が湖に来たときは、まだ空は青かった。結構長い時間、典晶は気を失っていたのかも知れない。

 夢の中で見た映像。余りにも生々しい夢だった。もしかすると、あれは現実に起こったことなのではないか。先日、イナリが言っていた昔の出来事とは、あの雨の日の出来事なのだろうか。

 忘れている過去。ラジエルが言っていた過去。

 夢で見た出来事が現実で、典晶が忘れているのだとすれば全てが合致する。


 ズキッ


 激しく頭が痛んだ。再び倒れそうになる典晶を、イナリが支えてくれた。

「大丈夫か? 調子が悪いのではないか?」

「分からない……。ただ、昔の事を思い出そうとすると、頭が痛むんだ……」

 典晶の手を取り、腰を上げたイナリの動きが止まった。中腰の姿勢のまま、背後を振り返る。

「どうした?」

 首筋を伝う油汗を拭いながら、典晶はイナリの背後を見た。

「母様……!」

 宇迦がいた。だいぶ離れていたが、日の沈み掛けた湖畔に、宇迦が立っていた。彼女は周囲を見渡し、こちらを見ると、急いで駆けてきた。

 息を切らした宇迦は、鬼気迫る表情だった。誰が見ても、尋常ではない何かが起きている。典晶は、言いようのない不安を感じた。

 イナリも敏感に宇迦の異変を感じ取ったのだろう。思い詰めた表情で声を張り上げた。

「母様! どうしたのですか?」

「イナリ! 逃げて!」

 宇迦が声を上げた瞬間、宇迦の体から赤い花が咲いた。

「えっ?」

 典晶は絶句した。

 宇迦の巫女装束から花が咲いたのではない。彼女の肩から胸に掛けて血が噴き出したのだ。糸の切れた人形のように、宇迦は湖岸に崩れ落ちた。

「母様ァァァ! 母様ァァァァ!」

 イナリが絶叫する。典晶を置いてイナリは駆け出そうとするが、三歩も行かないうちにイナリの足は止まった。

 典晶は目を疑った。宇迦を跨いで歩いてきたのは、那由多だった。月読と転神しているのだろう、月読が着ているものとほぼ同型上の黒い水干と赤い袴を身につけている。彼は、血糊のついた細剣を振るうと、薄暗い眼差しをこちらに向けた。

「典晶君」

 躊躇うことなく、那由多は湖に足を乗せる。不思議なことに、鏡のように磨かれた湖面は、那由多を飲み込むことなく、水面に持ち上げていた。

 那由多は平然と湖面の上を歩いてくる。夕日に照らされた那由多は、驚くほど無表情だった。怒っているのでも、狂っているのでもない。淡々と事務的に仕事をこなす、神を殺す。その行為は典晶にとって異常でも、那由多にとっては平常なのだろう。

「典晶君、馬鹿げているとは思わないか?」

「え……?」

 問われ、典晶は言葉に詰まる。

 最後まで話を聞かなくても、彼が何を言おうとしているのか理解できた。那由多の言葉から発せられる否定的な感情。那由多は、手にした細剣の切っ先を典晶に、いや、その隣にいるイナリへと向けた。

「嫁入りなんて間違っている……。家のしきたり? 馬鹿馬鹿しい。土御門は、憑かれているんだ……。いい加減、目を覚ました方が良い」

「那由多さん、どうしてこんな事を……?」

 イナリは倒れた宇迦を見て固まっている。今にも駆け寄りたいのだろうが、目の前にいる那由多はそうさせてくれそうにもなかった。

「言ったろう? 助けに来たって。典晶君、君を化け物共の呪縛から解き放ってあげるよ。その狐の化け物を殺してね」

 細剣の切っ先から、一滴の雫が落ちた。宇迦の血液であるその雫は、鏡のように静まった湖面に落ちると、微かな波紋を生じさせた。夕日に照らされた那由多、湖、細剣の切っ先。全ては禍々しく光り輝いていた。

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