三話

「まだまだ!」


 口から泡を飛ばした素戔嗚は、落ちた右手を左手で支え、傷口に押し当てた。先ほどと同じように、素戔嗚の腕は瞬時に回復した。


「三貴神は伊達じゃないか」


「おうよ! 俺を舐めるな!」


 素戔嗚は後ろ手に右手を振り上げる。拳を握りしめ、そして、それをアッパーカットの容量で振り上げた。ボッと言う激しい音がして、静かな湖面が二つに割れた。那由多が斬激に巻き込まれたかと思ったが、気が付くと、典晶の横に那由多は立っていた。


「チョコマカと動きやがって!」


 那由多を追って、素戔嗚もこちら側に歩いてきた。


「愚弟。此処は、マスターに任せて、下がりなさい」


 那由多が転神を解いたのだろう、素戔嗚との間に水干を身に付けた月読が出現した。彼女(彼?)は、氷のように冷たい眼差しを弟へ注いでいた。


「アニキ……!」


 水の上で足を止めた素戔嗚の表情が、険しくなる。


「如何にアニキの言葉といえど、それは聞けねーぜ」


「止めなさい、素戔嗚!」


 月読の気配が変わる。素戔嗚の放つ熱気とは対称的に、月読は冷気を纏っているかのようだ。


「目を覚ませ、アニキ! こんな事は間違ってる! バカでも分かるぜ! 俺と典晶は、マブダチだ。如何なる理由だろうと、殺させる訳にはいかねーぜ! そこを退いてくれ、アニキ!」


 大きな歩幅で、素戔嗚は歩き出した。湖面から陸地に上がり、恐れることなくこちらに歩いてくる。


「素戔嗚、止めろといってるでしょう……!」


 月読の表情が険しくなる。切り裂くような殺気を、彼女はその身に纏う。


「それはこっちのセリフだぜ、アニキ! アニキこそ、そいつとの契約を破棄しな!」


「黙りなさい! 愚弟!」


 月読の気が、大気を、湖面を震わせる。


「私の事をアニキと呼ぶのは、あれほど止めろといってるだろう! 私の事は、『お姉様』と呼びなさい!」


 月読が激高した。ただし、それは典晶やイナリとは全く関係の無いこと。自らの事を『アニキ』と呼ばれたことに対する怒りだった。


「マスター! 転神を! このバカを細切りにして、コキュートスに送り届けましょう!」


「いや……」


 隣にいる那由多は、戦う気が削がれたように、額を押さえて困った表情を素戔嗚に送っていた。


「もう終いだ、月読。素戔嗚も、終わりにしよう」


「ですが、マスター……!」


「ここまでやったんだ。それなりの覚悟はあるんだろうな、那由多!」


 素戔嗚は闘気を纏ったまま、那由多へ歩み寄る。だが、那由多は腕を組んで、素戔嗚を見やるだけだ。


「元々、手前なんかに神殺しの力があること自体、俺は疑問だったんだ!」


「おやめなさい、素戔嗚」


 声は意外なところから聞こえてきた。


「外野は黙ってろ! これは、俺様と那由多の問題だ!」


「外野はあなたですよ、素戔嗚」


「ああん?」


 素戔嗚の言葉を聞いたのは、それが最後だった。


 典晶は我が目を疑った。それは、イナリも同じだろう。


 彼の股間から足が生えていた。正確には、背後から振り抜かれた足が、股間を直撃していた。


「あ……あ……ああ……?」


 素戔嗚は白目を剥き、前向きに倒れた。素戔嗚の背後に立っていたのは、宇迦だった。腰に手をやった宇迦は、不機嫌な表情で再び足を振り上げると、素戔嗚を蹴り飛ばした。二メートルを優に超える巨体の素戔嗚は、宇迦の蹴りで鞠の様にポーンと跳ねると、一度湖岸でバウンドして、湖面に吸い込まれていった。


「宇迦さん?」


「母様……!」


 イナリが立とうとしたが、すぐに顔を歪めて倒れ込んだ。それを典晶が受け止めた。


 宇迦は典晶とイナリに手を挙げると、厳しい眼差しを那由多へ向けた。


「デヴァナガライ、失態ですね」


「……さーせん」


 那由多はガクリと肩を落とすと、宇迦に対してぺこりと頭を下げた。


「素戔嗚が来れば、こうなることは目に見えていました。あの脳筋、知力は低いくせに、妙に鋭いところがありますからね」


「俺は反対したんですが、勝手に付いてきたんですよ」


「……まあ、良しとしましょう。一定の成果は得られたわけですから。那由多、典晶さんの傷を。私はイナリの傷を治します」


「はい」


 意味が分からなかった。


 那由多に斬られたはずの宇迦がピンピンしており、那由多に対しては一言も言及せず、典晶達を助けた素戔嗚を非難していた。


「典晶君、大丈夫? 良く耐えたね」


 那由多はニコニコと笑いながら、月読を呼び寄せた。月読は那由多の指示に従い、細剣で貫かれた右肩に手を当てた。


「すぐに治りますよ」


 月読の言うとおり、一瞬にして痛みが引いていく。イナリを見ると、イナリの傷も宇迦が一瞬にして治してしまった。


「母様……一体どうして? お怪我は?」


「ああ、これね。良くできているでしょう?」


 宇迦は女子高生のようにコロコロと笑った。彼女は白衣に付いたテープを指先で捲った。


「通信販売で買ったの。クリック一つで何でも買える時代って、便利よね」


「母様、それは何ですか?」


「血糊だよ、血糊」


 那由多が典晶の傷の具合を確かめてから、立ち上がった。


「ボタン一つで、派手に血糊が飛び散る仕掛けになってるんだ。俺が斬ったと見せかけて、宇迦がタイミング良くそのボタンを押す。近くだと、わざとらしすぎてバレちゃうけどさ、ある程度距離があって、今みたいに薄暗ければ本物と見分けが付かない。と言っても、実際にあそこまで血が飛び散りはしないけどさ」


「過剰演出の方が、盛り上がるでしょう?」


 宇迦は再びコロコロと笑う。


「演出って……? 那由多さん、宇迦さん、どーいう事ですか?」


「母様、説明をしてくれ、全く意味が分からない」


 那由多は困ったように眉を寄せると、月読を見た。月読は小さく溜息を吐きながら肩を竦めて見せた。


「マスターと宇迦は、貴方達をくっつけるために一芝居を打ったのです。結果は、この通りでしたが」


「芝居って……、那由多さんがイナリを殺そうとしたことがですか? それとも……」


 典晶はガックリと項垂れた。余り考えたくはないが、もしかすると、全てが仕組まれていたことなのかも知れない。


「イナリ、お前は、どうして常世の森に来ているのかって、俺に聞いていたよな?」


「ああ。私はすぐに土御門家に帰る予定だった。典晶は私に謝りに来たと言っていたが、土御門の家で待っていれば、私はすぐに戻ったのだ」

 どうにも話が噛み合わない。それもそのはずだ。お互いにお互いの状況が理解できていない。


「どうして、イナリは常世の森に戻ったんだ?」


 ようやく状況を掴めてきた典晶は、那由多と宇迦をジト目で睨んだ。二人はスッと視線を逸らす。那由多は申し訳なさそうにしているが、宇迦はイタズラが見つかった悪童のように、わざとらしく口笛を吹いている始末だ。


「歌蝶母様に頼まれて、薬草を採りに来ていた。昨日のうちに帰ろうとしたが、今度は母様に掴まって、昨日は帰れなかったんだ。……典晶は、何も聞いていなかったのか?」


「……あのクソ婆……」


 力が抜けた。だが、心の何処かではこの結末にホッとしていた。イナリは典晶が嫌いになって出て行ったのではなかった。それが分かっただけで、どっと疲れが出てきた。


「俺は、イナリが泣きながら常世の森に帰っていったって聞いていた……。美穂子の件があったから、イナリが居なくなったんだと思って……。でも、良かった……良かった……」


 声が出なくなった。


 那由多も宇迦も月読も、こちらを見て目を伏せた。


「典晶」


 イナリの手が頬に添えられた。彼女は、流れた涙を優しく拭き取ってくれた。


 典晶は泣いていた。自分でも気がつかなかった。慣れない場所へ来た不安、イナリへの罪悪感、そして、那由多に殺されるかと思った恐怖。心に掛かっていたストレスが一瞬にして消えた。ストレスと一緒に、張り詰めていたものが無くなったのだ。心が軽くなると同時に、安堵の涙が溢れてきた。


「本当にゴメン、典晶君。この埋め合わせは、必ずするから……」


 那由多は両手を合わせて頭を下げる。


「いいですよ。どうせ、母さんに言われたんでしょう?」


「……ああ。昨日、アマノイワドに戻ったとき、八意から手紙を受け取ってさ。歌蝶さんにお願いされたんだよ。一芝居打つから、協力してくれって。帰りの電車賃とか工面してくれるって言うからさ……、足元を見られたというか……本当にゴメン!」


「典晶さんが余りにも単純で、少々ビックリしましたけどね」


「母様! やって良いことと悪いことの区別も付かないのですか?」


「ホラ、私達って基本暇でしょう? 娘の嫁入りの事もあるし、暇つぶしを兼ねて、ちょっとお手伝いしてやろうかな、と」


 全く反省の色がない宇迦。恐らく、この件は歌蝶と宇迦の二人で仕組んだことなのだろう。

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