二話 

 記憶が、洪水のように溢れて来る。



 何も見えない、暗い洞の中。



 鼓膜を叩く、激しい雨音。



 胸の中に感じる、小さな命の温もり。



 幼い頃、典晶はイナリと遊んでいた。その時、イナリと遠くにまで来てしまった。そこが、常世の森だった。典晶とイナリは迷子になってしまい、日が暮れると雨が降ってきた。典晶はイナリと共に巨大な木の洞に入り込み、一晩を明かした。


 典晶は、幼い頃に此処に来たことがある。そして、典晶は約束した。何があっても、イナリを守ると。そんな大事な事を、典晶は忘れていた。だが、イナリはずっと憶えていてくれたのだ。


「イナリは、俺が守る!」


「どうしても、守るって言うのか? 自分が死ぬかも知れないって言うのに?」


「はい……! それでも、イナリを守ります!」


 正直、那由多に勝てる見込みは皆無だ。この状況では、奇跡が起こりようもない。ボクシングのように、ラッキーパンチで一発逆転など典晶にできるはずがない。転神している彼は、神を超える存在。彼だけが、神を裁けるのだ。一介の人間である典晶に、何ができるだろうか。


「イナリは、ずっと俺を助けてくれました! だから、今度は、俺がイナリを助ける番なんです!」


「君は、狐の嫁入りを認めるのか……? こんな馬鹿げた仕来りを? 親の言いなりになって、自分の人生を捨てるって言うのか! 典晶君! 君の思いは、気持ちは何処にある!」


 苛立たしそうに那由多が細剣を振るった。左右にある大木が両断され、崩れ落ちる前にボロボロになって朽ち果てた。


「それでも構いません! 俺の人生がどうなろうと、イナリをこんな形で死なせるわけにはいきません!」


「どうしても、そこを退かないのか?」


「退きません! 那由多さんは笑うかも知れないけど、俺は、土御門の名に誇りを持っています。どんな経緯があろうと、父と母は幸せな家庭を築いています。俺も、もしかしたらですけど……、イナリと一緒になったら、幸せな家庭を気付きたいと思っています!」


「正気か? こいつらに、一生人生を食いつぶされるんだぞ?」


 那由多は額を押さえて俯いた。歯を食いしばり、その口から漏れるように言葉が紡がれる。


「君は、モノノケと結婚したら、人とは違う生活を送る事になる。今日みたいな事が、日常茶飯事になるんだぞ? それでも、良いのか?」


「……分かりません。だけど、こんなやり方で、終わりにはしたくないんです。那由多さん、剣を引いて下さい!」


 俯いた那由多が深く、静かな溜息をついた。剣先が下がり、纏っていた殺気も形を潜めた。


「……そうかよ」


 一瞬だけ、那由多の気が逸れた。次の瞬間、耳をつんざく爆音と共に、那由多の姿は目の前から消えていた。


「那由多! 手前! 許さねーぜ!」


 木々をへし折りながら登場したのは、素戔嗚だった。赤いオーラを全身から発散している素戔嗚は、鬼の形相で仁王立ちしていた。


「どういうつもりだ! 宇迦を殺し、更にイナリまで殺そうとする! どういう了見だ! ああ?」


 どしどしと歩き、素戔嗚は吹き飛んだ那由多の襟を掴んで持ち上げた。


 この時、典晶は理解した。那由多が目の前から消えたのは、素戔嗚が横から殴ったからなのだ。余りのスピードに、典晶の目には彼が消えた様に映ったのだ。


「おい! 答えろ! 返答次第じゃ、手前の細い首をへし折ることになる!」


「……チッ」


 那由多は大きく足を振り上げると、反動をつけて素戔嗚の腕に巻き付いた。素戔嗚はすぐさま那由多を引きはがそうとしたが、それよりも先に、鈍い音を立て素戔嗚の右手が折れた。


 素戔嗚は吠えながら那由多を離し、踏鞴を踏んだ。


「那由多ァァァ!」


「もうちょっとだったのに、邪魔をしやがって」


 素戔嗚に殴られたと言うのに、那由多は無傷だった。それどころか、素戔嗚の丸太のように太い腕は、飴細工のように何回も捻られていた。

 素戔嗚は右手を押さえながら歯を食いしばった。彼は左手で右手を掴むと、表情一つ変えずに折れた右腕を元の形へと戻した。そして、彼は「フンッ」と、一声気合いを発すると、折れたはずの右腕が治癒した。


「上等だ! 那由多! そっちがその気なら、こっちにも考えがあるぜ!」


 言うが早いか、素戔嗚は駆け出し那由多に殴りかかった。


 先ほどは不意を突かれただけの那由多は、軽い身のこなしで素戔嗚の攻撃をいなした。


「チョコマカと! 消し飛べ!」


 気合いの声と共に、丸太のような腕が振り下ろされた。地面を砕き、小さなクレーターを作ったが、那由多は軽く飛ぶと水面に着地した。


「待ちやがれ!」


 典晶の目には、那由多の動きは瞬間移動したかの様なスピードだったが、素戔嗚の目は那由多の動きを取られていたようだ。素戔嗚の巨体は那由多に劣らないスピードで彼に接近する。


 湖面で二人の戦いが繰り広げられた。那由多、素戔嗚とも水面に小さな波紋を残すだけで、まるでダンスをしているかのような足運びだ。


「シッ!」


 繰り出された拳を躱した那由多は、すれ違い様細剣を振るった。光が奔った、典晶の目にはそう見えただけだったが、背後にいるイナリは「あっ」と小さく声を上げ体を硬くした。


「ッッックソが……!」


 素戔嗚の右手の肘から先が外れた。那由多が腕を切ったのだ。彼の一撃は、丸太のように太い素戔嗚の腕を、野菜を切るよりも容易く切断してしまう。

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