四話

 電車に揺られながら、典晶は沈む夕日を見つめていた。都市である千野田市から少し離れただけで、広大な田園風景が広がる。遠くに見えていた山々も、徐々に近づいてくる。


「我が町は田舎だな……」


 向かいに座る文也も同じ事を考えていたのだろう。田園風景を見て呟く。


「文也は、高校卒業したらどうするんだ?」


「ん? まあ、普通に大学かな。地元かどうかは分からないけどさ。典晶は? 地元に残るのか?」


 文也の視線は、バッグから顔を出し、過ぎ去っていく田畑を見つめているイナリに向けられていた。


「……どうだろうな。今は白紙状態」


 先日まで、漠然とした人生計画は立てていた。一流とまではいかないが、地元の大学に行き、地元の企業に勤める。平々凡々の人生。でも、それが自分らしいと思っていた。身の丈に合ったことを望む。それ以外のことは望まない。向上心が無いと言えばそうかも知れないが、自分では現実的だと思っている。


 それが、イナリの登場で一変した。波風の立たない人生が一変した。人生において、これまでにない転機が訪れていることは確かだ。


「だよな……。俺もだよ」


 しみじみと文也も呟く。彼は遠い眼差しを浮かべ、山の合間に沈もうとしている太陽を見つめた。ハァ、と文也の口から溜息が漏れた。


「俺も月読さんに出会っていなければ、こんなに思い悩むことはなかった」


 肘掛けに片肘を突いていた典晶は、思わずずっこけてしまった。


「お前も見たろ? イナリちゃんに勝るとも劣らない、あの冷たい双眸。まさに、夜の女神に相応しい。夜空に浮かぶ満月のように、孤高な美しさを内包している」


「………止めとけ」


 典晶は呟く。コクリとイナリも頷く。


「やっぱり、俺みたいな凡人は神様なんて相手にしないかな?」


「それを言うなら、俺の方がより凡人だろう」


「お前は凡人じゃないだろう。少なくとも、今はもう違う。凡人は俺の方さ。神様の住む場所へ足を踏み入れることはできるけど、俺は遠くから彼女を見ていることしかできない」


「昨日、息が届く場所で話していたよね?」


 典晶の言葉を無視し、文也は目元を押さえる。


「……俺さ、マジみたいだ。この気持ち、ガチでヤバイ」


 これは重傷だ。色々な意味でガチでヤバイ。典晶は本当の事を言おうか迷ったが、典晶の気持ちを察したイナリが小指を甘噛みした。


 こちらを見上げるイナリの眼差は、月読の言った事を守れ、そう言っているように思えた。


 ああ見えても、彼女、いや彼は神だ。それも、三貴子(みはしらのうずのみこ)で、もっとも尊いとされている神様の一人だ。その力はかなりの物だろう。本当かどうかは定かではないが、彼は激情に駆られて保食神を一刀の元に切り伏せている。


「典晶、また今度で良いからさ、高天原商店街に行こうぜ」


 夕日に輝く眼差しには期待が込められていた。典晶は月読の顔を思い出しながら、「ああ……」と絞り出すように答えた。


 もっとも、典晶が心配するようなことでもないかも知れない。彼は神であり、文也は普通の人間だ。月読はただのお遊びで文也をからかっているだけで、いずれ飽きて本当の事を告げるだろう。文也には気の毒かも知れないが、典晶にできることと言えば、彼の暴走を食い止め、失恋のショックを和らげる事だけだ。


 アナウンスが高天原駅を告げた。


「愛しい地元に到着だ。高天原商店街、前まで糞つまらねー商店街だと思っていたけど、今は輝いて見える。道行くおばちゃんも天宇受賣命(アメノウズメ)に見えるぜ」


「文也、正気に戻れ」


 文也の頭を軽く叩いた典晶は、電車を降りて商店街に隣接している駅に降り立った。




 月が映り込む室内プールには不自然な波紋が生じていた。


 イナリはプールサイドに立つと、胸の前で両手を合わせて目を閉じた。朗々とした声がイナリから発せられる。


「澳津鏡(おきつかがみ) 辺津鏡(へつかがみ) 八握剣(やつかのつるぎ) 生魂(いくたま) 足玉(たるたま) 死反魂(まかるがえしのたま) 道反玉(ちがえしのたま) 蛇比礼(へびのひれ) 蜂比礼(はちのひれ) 品物比礼(くさぐさのもののひれ) 布瑠部由良由良止布瑠部(ふるべゆらゆらとふるべ)」


 イナリは右手をプールに掲げる。光源が何もないというのに、ボンヤリとプールが輝きだした。これは十種神寶(とくさのかんだから)と呼ばれる祝詞だ。本来ならば十種大祓(とくさのおおはらい)と呼ばれる祝詞を読み上げるのだが、これはそれを簡略化した物だ。


「辺津鏡にて生魂をこの世に顕せ」


 イナリの言葉が止むと、プールの中に一人の女子生徒が浮かび上がった。


 数日前、ビルの屋上で晴海の姿を浮かび上がらせたのもこの祝詞だったのだろう。あの時は、イナリは狐のままだったから一声吠えたようにしか聞こえなかったが、これが本来の形なのだ。


 この祝詞の効果があれば、ソウルビジョンを使わずとも玲奈を見る事ができるし、話す事だってできた。


「玲奈」


 典晶は玲奈に呼びかける。死んでもなお、玲奈は生きているときと同じように泳いでた。死んだのだから好きなことをやればい良いと思うのだが、どうやらそういう訳にはいかないようだ。


 もの悲しい眼差しで玲奈が泳いでくるのを待っていると、溜息交じりにイナリが呟いた。


「幽霊というのも不憫だな」

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