十二話

 素戔嗚。それは、紛れもなく素(す)戔(さの)嗚(おの)尊(みこと)なのだろう。あの名高い三貴子の一人。天照、月読、そして素戔嗚。


「なんだよ、人間共がいるのかよ! 那由多以外の人間が来るとは、随分と珍しいじゃねーか!」


 まさに豪放磊落を絵に描いたような男神。身に纏う闘気を撒き散らしながら、彼はゆっくりと歩いてきた。彼が動く度、アマノイワドの空間が軋みを上げる。


「うぁ……」


 呻き声を上げて文也が後ずさった。彼は番台に背を預け、盛大に顔を引きつらせている。典晶も逃げたかった。できればこの場から遠ざかり、素戔嗚を忘れたかった。


「なんじゃ……此奴……コワイ……」


 イナリが典晶の後ろに隠れた。あのイナリが震えていた。目の前の素戔嗚は、それほどの存在だと言う事だろう。何の力も無い典晶と文也も、彼の持つ特異性を目の当たりにして体の奥底から恐怖しているのだから。


「ほぅ、力を持たない人の子が、俺を見て凄さが分かる、か……」


 低い声が典晶達に降り掛かる。身の丈は優に二メートルを超えている。褐色の肌に、剣山のように尖った長い髪。体中の筋肉ははち切れんばかりにビルドアップしている。腕の筋肉は、典晶の太股と同じかそれよりも太いだろう。太い眉の下には、見つめるだけで魂を押し潰しそうな威圧感溢れる瞳がある。


「凄い……初めて見た」


 文也が震える声を発する。素戔嗚は満足そうに頷く。


 素戔嗚の凄さは、体の大きさでも、身に纏う闘気でも、眼光の鋭さでもない。


 ピンク色のベスト。手には剣ではなく団扇。頭にはハチマキ。何よりも典晶達の注意を引いたのは、ピンクのベストと団扇、ハチマキに同じ文字が書かれていたことだ。その文字とは……。


「美神萌子LOVE……?」


「おうよ! お前も萌ちゃんのファンか?」


 ズイッと素戔嗚が顔を押せてくる。ニッと笑う口からは、鋭い牙のような歯が整然と並んでいる。体と比例して大きな顔。彼がやろうと思えば、典晶の頭くらい簡単に食いちぎれるだろう。


 これは、狐の嫁入り以上に危機迫る人生最大の選択に違いなかった。典晶は荒い呼吸をそのままに、「はい」と答えた。


「………」


 素戔嗚は訝しがるように典晶を見、隣でコクコクと凄い早さで頭を上下させる文也を見る。やおら両手を上げた素戔嗚は、バンッと典晶の背中を叩いた。


 息が詰まり、吹き飛ぶ典晶。地面を転がりパソコンが展示されているデスクに背中を打ち付けた。


「ガハハハハ! そうだろう! そうだろう! 萌ちゃんの可憐な表情、つぶらな瞳、セイレーンでさえ裸足で逃げ出す美しい声音。彼女を見て靡かない男は男じゃねー!」


 拳を握り吠える素戔嗚。


 典晶は見た。素戔嗚の身につけるベストの背中には、萌子の顔写真がプリントされていることに。


「大丈夫か、典晶?」


 トテトテとイナリが駆けて来る。


「ああ」


 軽く咽せた典晶は、イナリの手を借りて立ち上がる。


「萌子とは何者じゃ? あの素戔嗚をあそこまで骨抜きにするとは、魔女の類か? それとも、アプサラスの眷属か?」


「んにゃ、最近売り出しの、小学生アイドル、美神萌子だ。CM、ドラマ、更に歌まで器用にこなすスーパーガール。容姿は、あの背中の写真通り。どう見ても年相応の女の子」


 喉の奥で唸ったイナリは、典晶の耳元で囁く。


「……此奴、生粋のロリコンか……」


「ああ。見るからにヤバイが、マジでヤバイ。ある意味、凶霊よりヤバイだろ」


「んん?」


 その時、素戔嗚がイナリを捕らえた。


 ビクリとイナリが飛び上がる。フサフサした三つの尾が、ピンッと伸びた。ダボダボの制服がずれ、イナリのぺったんこな胸元が露わになる。


「お前ぇ……!」


 ビリビリと空気が震える。素戔嗚が体の向きを変え、一歩、こちらに踏み出してくる。典晶と素戔嗚の間にある空間が軋む。飴細工のように空間がグニャリと歪み、典晶は背後にイナリを置いたまま後ずさるしかなかった。


「萌えじゃねーか! 萌え過ぎるぜ、チクショー!」


 突然、素戔嗚は雄叫びを上げた。


「その怯えを秘めつつも気高さを忘れない眼差し! 媚びと萌えの違いを分かってるじゃねーか!」


 岩石のようにデカイ両拳を握り締め、素戔嗚は体をくの字に曲げて、「くぅ~! いいねぇ! いいじゃねーか! 歌舞いてやがる!」と喜びに打ち震える。


「コイツ……!」


 文也が素戔嗚の背後で呻く。


「ああ」


 典晶は頷く。


「マジでダメだ」


 色々な意味でダメダメな素戔嗚。月読もそうだったが、三貴子と言われた神様がこの有様では、残りの一人、天照も期待はできないだろう。


「気に入ったぜぇ! お前! それとお嬢ちゃん、名前は?」


「土御門、典晶、です」


「イナリじゃ。葛葉イナリ」


「ほほぅ~! 土御門といえば、あの土御門か」


 顎に生える無精髭を指先で抜きながら、素戔嗚は典晶に顔を近づける。こんな素戔嗚だったが、やはり威圧感は凄まじく、面と向かっているだけで体力を削られ神経を摩耗していく。


「そうじゃ、あの土御門じゃ。狐の嫁入りの真っ最中じゃ」


 見かねた八意が助け船を出す。


「そっちのちんまいのは、宇迦之御魂神の娘じゃ」


「宇迦の娘か! 宇迦もいい女だから、その娘も頷ける」


 だらしなく目尻を下げる素戔嗚。ゆっくりと、彼の手がイナリに迫る。


「ちょっ! 何をする! 止めるのじゃ!」


 シッシッとイナリは素戔嗚の手を追い払おうとするが、そんなもので素戔嗚の手が止まるはずもない。


「止めろ!」


 そう叫びたかったが、半開きになった口から「あ~」だの「う~」だの、まともな言葉が出てこない。典晶は文也に助けを求めるが、文也もフルフルと首を横に振るだけ。


「むり無理ムリ! 絶対にムリ!」


 パクパク開いた口はそう言っていた。


 ジワジワと素戔嗚の手がイナリに迫る。


 ギュゥッとイナリの手が典晶の手を握り締める。


 素戔嗚からイナリを守ることもできない。たった一言、制止の言葉すら口にできない。意気地の無い男に、イナリはどんな気持ちを抱いているのだろうか。


 無骨な素戔嗚の指先が、イナリの絹のように美しい銀色の髪に触れる。と、その直前で素戔嗚動きは止まった。


「おおっと! 危ない危ない!」


 体を大きく仰け反らした素戔嗚は、何故か拳を握り締めて満面の笑みを浮かべる。


「タッチはダメだ! それはいかん。ファンとは遠くからアイドルを見守るもの! 触れるのはいけない! ルール違反だ! 触れたら犯罪だ!」


「この、ド阿呆!」


 その時、素戔嗚の体が微かにぶれた。直後、素戔嗚の巨体は吹き飛び、八意が何時も座っている番台に直撃した。


「愚弟! なにをやっているか?」


 月読だった。彼、いや、彼女は氷のメスのように冷たい眼差しで、大の字に倒れた素戔嗚を睥(へい)睨(げい)していた。

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