八話

 何をやっても恰好が付かない典晶は、情けなさで足下を見てしまった。


「典晶は逆さ爺を認識できているからな。逆さ爺の隠れ身も通用しない」


 優しく笑ったイナリは、痛がる逆さ爺をそのままに階段を駆け下りた。


「イナリ!」


「イナリちゃん!」


「何をやっている! 典晶、文也、美穂子の危機なんだろう? 凶霊の餌になぞしてたまるか、助けるぞ!」


 スカートの裾を大きく揺らしながら、イナリは一階へ降りて南校舎へ向かった。階段を駆け上り、調理実習室のある二階へ到着した。すでに、廊下は黒山の人だかりだった。



 殺してやる! 殺してやる! コロシテヤルゥゥゥ!



 奇声が廊下に響き渡る。


 人混みをかき分けた典晶は調理実習室の前まで来た。大勢の生徒がいたが、誰も調理実習室に入ろうとせず、閉まったドアを遠くから見守っているだけだ。


 調理実習室から響く奇声、それに続いて何かが散乱する音が聞こえる。


 典晶の足は止まってしまった。恐ろしい。この中には凶霊がいるのだ。


 那由多は言っていた。凶霊には近づくなと。だが、今は那由多を待っていられるほど時間的余裕は無い。こうして扉の前にいる時間だって惜しいのだ。だが、意思に反して体が動かない。


「理亜ちゃん! 落ち着いて!」


 叫び声に近い美穂子の声が聞こえてくる。直後、大きな物音が聞こえてきた。理亜が椅子を手当たり次第に投げつけているようだ。


「典晶!」


 イナリがこちらを振り返る。


 扉を開けて美穂子を助けなければいけない。それは分かっているのだが、体が動かない。恐ろしくて、体が動かないのだ。


「イナリ……!」


 典晶は震えていた。イナリは険しい顔をして頷くと、扉へ向かった。


「典晶、行くぞ!」


 危険だと、生徒の誰かが言うが、イナリは迷うことなく扉を開けた。そして、中へ入っていく。典晶は文也に押され調理実習室の中に入った。


 誰も触れていないのに背後で扉が閉まった。


 実習室は凄惨を極めていた。備え付けの机は、天板だけが吹き飛ばされたかのように吹き飛んでおり、至る所に椅子が転がっている。壁を見ると、包丁が何本も突き刺さっていた。


 部屋の中央に立つ理亜。死人のように青ざめた顔だが、眼だけは血を流したかのように赤く染まっている。両手には逆手に持った包丁。見るからにやばかった。


「美穂子!」


「イナリちゃん?」


 床に座り込んだ美穂子。包丁で切ったのだろうか、彼女の足は鮮血で染まっていた。


「典晶、美穂子を頼む」


 イナリの言葉に典晶は反射的に動いた。背後から脇の下に手を回し、美穂子を少しでも理亜から遠ざける。


「典晶、理亜ちゃんが……」


 美穂子は理亜を見て悔しそうに唇を噛んだ。


「大丈夫、イナリが、何とかしてくれる」


 何とかできるのだろうか。イナリ自身も言っていた。今の自分では凶霊には勝てないと。イナリは、どうするつもりなのだろうか。典晶は銀髪を静かに揺らすイナリの後ろ姿を見つめることしかできなかった。


 不思議な力が働いているのだろうか、磨りガラス越しに右往左往している人の影が窺えるが、声などは一切聞こえてこなかった。もしかすると、教室の前後にある扉も開かないのかもしれない。


「凶霊! その子から離れろ!」


 イナリが吠える。だが、眼を見開き鬼の形相となった理亜は何も答えない。


 しばし、イナリと理亜は向き合う。典晶と文也、美穂子は息を飲んで成り行きを見守っている。


 典晶はきつく唇を噛んだ。典晶にできるのは見守る事だけ。それしかできないことに、典晶は自分の未熟さ、不甲斐なさを痛感した。


 僅かに腰を落とした理亜が跳ねた。常人離れした跳躍力で天井すれすれまで飛び、逆手に持った包丁をイナリに突き立てようとしてくる。


 イナリは体を回転させるように躱すと、そのままの勢いで回し蹴りを放った。鋭い蹴りが理亜の顔面に命中し、理亜は南側の窓際まではじき飛ばされた。



 邪魔をしやがって………



 窓枠に激しく背中を打ち付けた理亜だったが、全く効いていないようだ。口から飛び出す言葉はこれまで聞いた事がないほど低く、おぞましい響きを帯びていた。口からは血液に混じりダラダラと大量の唾液が零れ落ちる。


「当然、邪魔をする! 美穂子は私の友人だ! その友人を傷つけようとするお前、お前は敵だ!」


 両手を胸の前で合わせるイナリ。再び飛びかかろうとする理亜よりも先に、イナリの口から祝詞が紡がれた。



 高(たかま)天(が)原(はら)に坐(ま)し坐(ま)して天と地に御働(みはたら)きを現(あらわし)し給(たま)う龍王(りゆうおう)は



 大宇宙(だいうちゆう)根元(こんげん)の御祖(みおや)の御使(みつか)いにして一切を産み一切を育て



 萬物(ばんぶつ)を御支配(ごしはい)あらせ給(たま)う王神(おうじん)なれば



 一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやこと)の十種(とくさ)の御寶(みたから)を己(おの)がすがたと変(へん)じ給(たま)いて



 自(じ)在(ざい)自(じ)由(ゆう)に天(てん)界(かい)地(ち)界(かい)人(じん)界(かい)を治(おさ)め給(たま)う



 朗朗としたイナリの祝詞が不思議な響きを持って調理実習室に広がる。


 頭を押さえて理亜の膝が折れた。眼球が飛び出さんばかりに見開かれた理亜の顔は、まるで別人だった。餅のように白く滑らかだった肌には幾つもの筋が入り、唾液が溢れ出る口からは嗄れた老人のような声が絞り出される。


 祝詞を唱えながら、イナリは右手で九字を切る。滑らかに動く手に合わせ、理亜の体が見えない刃で切られるように体を仰け反らせる。



 龍王神(りゆうおうじん)なるを尊(とおと)み敬(うやま)いて



 眞(まこと)の六根(むね)一(ひと)筋(すじ)に御仕(みつか)え申(もう)すことの由(よし)を受引(うけひ)き給(たま)いて



 愚(おろ)かなる心の数々を戒(いまし)め給(たま)いて



 一(いつ)切(さい)衆(しゆ)生(じよう)の罪穢(つみけがれ)の衣(ころも)を脱(ぬ)ぎ去(さ)らしめ給(たま)いて



 萬物(よろずぶつ)の病災(やまい)をも立所(たちどころ)に祓(はら)い清(きよ)め給(たま)い



 萬(よろず)世(せ)界(かい)も御祖(みおや)のもとに治(おさ)めしせめ給(たま)へと祈願奉(こいねがいたてまつ)ることの由(よし)を聞(きこ)し食(め)し



 六根(むね)の内に念じ申す大願(だいがん)を成就(じようじゆ)なさしめ給(たま)へと



 恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(もう)す




「うああああぁぁぁぁぁぁーーーー!」


 大気を振るわせて理亜は絶叫した。その声は、とても人が出せるものとは思えない大音響だった。喉を掻き毟った理亜は、イナリの祝詞が終わるのと同時に糸の切れた人形のように前のめりになり、手にした包丁を落とした。


「死になさい」


 イナリの口からぞっとする言葉が飛び出した。


 典晶は美穂子の側から離れ、イナリの手を取った。


「待て、イナリ!」


「邪魔をするな、そうしなければ、この女から凶霊は払えない」


 まるで別人だった。彫像のような完璧な美貌を誇るイナリが、今は氷で作られた近寄りがたい彫像のようだ。冷たく、冷徹に、死を宣告する。


「だからって、殺すって……! 何を考えているんだ!」


「凶霊はそれだけ危険だ。那由多が来るまで、時間を持たせるにはそれしかない」


「だけど……!」


 反論する典晶の言葉をイナリは眼差し一つで止めた。


「此処で仕留めなければ、典晶と美穂子が危険にさらされる」


「まって、イナリちゃん!」


 美穂子の叫びにも、イナリは眉一つ動かさなかった。


「時間が無い。奴は狡猾で強力だ。私の力では、凶霊をあの女から引き離すことはできない。あの女の魂ごと、一旦散らすことしかできない」


「だから、殺すな!」


 典晶は理亜とイナリの間に立ちふさがった。神通力を扱えるイナリにこれがどれほどの効果があるか分からないが、典晶は頭で考えるよりも先に行動していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る