九話

「………」


 イナリの冷たい視線が典晶に向けられる。普段のイナリなら、典晶の言葉には肯定的な態度を示してくれる。だが、今は違う。イナリは明らかに典晶の言葉に反して、凶霊を退けるために理亜を殺そうとしていた。


「他に方法はないのか?」


「ない。凶霊は普通の霊とは違う。成仏させることはできない。浄化しか無いが、私の神力ではそれすらも適わない。今取れる最善の手段は、その子の魂と一緒に凶霊を散らし、時間を稼ぐしか無い」


「そんな簡単に……人を殺して良いはず無いだろうが」


「そいつが生きていれば、もっと多くの人が死ぬぞ。現に、美穂子は殺されそうになった」


 典晶は二の句が継げなかった。イナリの言うことは分かる。理屈ではイナリが正しいのだろう。だが、此処は人間の世界だ。簡単に人殺しを容認できる世界ではない。それに、これは理亜ではなく、凶霊が悪いのだ。それなのに、一時の時間稼ぎのために理亜を殺すことはできない。認められない。


「そこを退け、典晶。時間が無い」


「………退けない」


 ズイッとイナリが前進してくる。典晶は一定の距離を保つように後退した。足に何か当たった。見ると、理亜が手から落とした包丁だった。


「イナリ、止めてくれ。理亜を殺す必要なんて無い」


「駄目だ。それほど、凶霊は危険なんだ」


 頑として自分を曲げないイナリ。典晶に考える時間はなかったし、他に良い案があるわけも無かった。


「あっ!」


 文也と美穂子が声を上げた。イナリの表情が変わった。目を見開き、口を開き掛けた。


 突然、典晶の首が絞められた。万力で締められたように、一瞬にして顔が焼けるように熱くなる。イナリが何かを叫んだが、聞こえなかった。典晶の体が後ろに引っ張られるように動いた。視界が九十度移動し、典晶は天井を見ていた。そして、視界は勝手に移動し、ついには青空を映し出した。


 体が急速に落下していく。空が遠くなり、つかの間の無重力が典晶を包み込んだ。




 気がつくと、典晶はグランドに横たわっていた。すぐ横には理亜が眠っている。


「気がつきましたか?」


 逆さ爺が典晶の顔を覗き込んでいた。


「あ……此処は……?」


 どうなっていたのか分からなかった。


「典晶殿が空から落ちてきたので、受け止めたのです。危うく命を落とすところでした」


 典晶は上半身を起こして校舎を見上げた。安堵の笑みを浮かべる文也と美穂子。イナリは真っ青な顔で口元を押さえ、窓からこちらを見下ろしていた。イナリの赤い瞳からは、銀色の涙が零れていた。


「凶霊は……」


 鈍い痛みを発する首をさすりながら、典晶は理亜を見る。


「まだ、この少女の中にいますが、すぐに目を覚ますかどうかは分かりません。どうか、凶霊にはお気をつけて」


 長い手で頭を掻いた逆さ爺は、校舎から飛び出してくる教職員を見ると、ぺこりと頭を下げて消えてしまった。


 とりあえず、理亜が死ななくて良かった。だが、今のままでは何も解決してはいない。凶霊は理亜の中に巣くっており、払われていないのだ。

 走り寄ってきた教職員に簡単に事情を説明した典晶は、イナリ達のいる実習室へ向かった。




「さて、美穂子と理亜は病院に行ったな。これで、少しでも理亜が目を覚まさないで時間を作れれば良いんだけど」


「典晶は本当に大丈夫か? 端から見たら、お前もかなりヤバそうだったけどな」


 文也が心配そうに言うが、典晶は笑顔で答える。


「話したとおり、逆さ爺っていう妖怪に助けられたからさ、問題はないよ。この状況で、帰るわけにも行かないしね」


 典晶は階段の上を見上げた。実習室へ通じる廊下と階段は閉鎖され、典晶達は階段の下で話し合っていた。

 典晶はイナリを見る。イナリは腕を組んだまま、厳しい表情で窓の外を見つめている。ふと、典晶の視線を感じたのだろう、イナリは僅かに小首を傾げてこちらを見た。


「どうした?」


「あの、さっきのことなんだけど」


 イナリは迷うことなく理亜を殺そうとした。典晶には、それが気がかりだった。


「理亜を殺そうとしたことか? 間違ってはいないだろう。ああしなければ、典晶と美穂子、文也が危険にさらされていた」


「実際、お前は殺されそうになったけどな」


 文也がイナリの言葉を肯定する。


「確かにそうだけどさ。……殺すなんて……」


「私にとっては、見知らぬ女よりも、典晶達の方が大事だ。優先順位に従った、それだけのことだが?」


 足を止めたイナリは小首を傾げる。


「………」


 罪悪感も、迷いのかけらも無いイナリの表情に、典晶は戸惑う。イナリは、もしかすると人としての大切な何かを持ち合わせていないのかもしれない。


「でも……」


 典晶は小さな声で呟くように言った。


「殺しは良くない……。理亜は悪くないんだ……」


「そうか。だが、どうすることもできない。あそこでは、あれが最善の選択だったと私は思う」


 何の感情も込められていない瞳、冷たい声が返ってきた。


「………」


 典晶は言い返せない。あの時、逆さ爺が助けてくれなかったら、典晶は死んでいたかもしれないのだ。そう思うと、イナリの判断は間違っていない。むしろ、正しいように思える。頭では分かっていたが、心はイナリの考えに反発していた。

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