二話

 九時過ぎ、バイトを終えた信二が学校に訪れた。典晶は礼を言うと、男子トイレの窓から室内プールに忍び込んだ。


 プールサイドではイナリと文也が待っていた。典晶が頷くと、イナリは昨夜と同じように十種神寶(とくさのかんだから)を読み上げた。プールが輝きだし、玲奈の姿が浮かび上がる。


 信二の瞳が見開かれ、蹌踉けるようにプールサイドに駆け寄った。


「玲奈……、本当に玲奈なのか?」


「先輩」


 玲奈は僅かに微笑んだ。


「私、ずっと練習していたんです。先輩に見て貰いたくて……」


 パシャリと水を鳴らし、玲奈がプールから出てきた。スタート台に立った玲奈はスタートの体勢を取る。スタート台の縁に両足を揃えて乗せる、グラブスタートだ。


 文也は用意していたストップウォッチとスターターを信二に手渡す。典晶達はプールサイドに移動すると、ベンチに腰を下ろして信二と玲奈を見守った。


 暫し、玲奈の横顔を見つめていた信二は、スッとスターターを空に向けてあげた。



 パンッ!



 スタートの音が鳴るのと同時に、玲奈が飛び込んだ。玲奈はクロールで五〇メートルプールを突き進む。


 月光に輝くプールで泳ぐ玲奈は、まるで魚だった。典晶は水泳の事はあまり詳しく分からないが、玲奈の泳ぎは見ている方が溜息をついてしまうほど無駄がなく美しかった。素人の泳ぎとは明らかに違う、鮮麗された泳ぎがそこにあった。


 五〇メートル進み、玲奈は折り返した。


「頑張れ、玲奈! 頑張れ!」


 信二が叫んだ。彼は手にしたストップウォッチと玲奈の泳ぎを見比べている。


「もう少しだ! 行け! 行け!」


 後一〇メートル、五メートル、一メートル。玲奈がゴールした瞬間、信二はストップウォッチを止めた。そして叫び声を上げる。


「やったぞ! 玲奈、君の新記録だ!」


 スタート台の脇に立ち、プールに向かって手を差し伸べる信二。玲奈は水面から顔を出し、満足そうに笑顔で答えた。


「良くやったぞ! 本当に、良くやった……良く……頑張った……」


 信二の声は涙声になっていた。ここからは遠くで見る事はできないが、信二は泣いているのかも知れない。


「有り難う御座います、先輩。私、嬉しいです」


 玲奈は手を伸ばそうとして手を上げた。だが、その指先から光が溢れ、光の粒子となって天へと昇っていく。手が光になって消え、肘、肩と玲奈の体を構成していた物が失われていく。


「玲奈、待ってくれ! 俺は君に謝りたい! 済まなかった! 放課後、練習に君を付き合わさなければ、君を死なせる事も無かった!」


「良いんです先輩。私は満足してます。最後の最後まで、大好きな先輩と一緒にいられたんだから」


 玲奈の体が優しく輝くと光へになった。玲奈を形作っていた光が、蛍のようにプールの上を彷徨い、一つ、また一つと天へと帰っていく。


「終わったな……」


「ああ」


 文也の呟きに典晶は頷いた。何をしたわけでもないが、もの凄く疲れた。だが、この疲れは心地よい疲れだった。


 これで玲奈も成仏できた。もう、一人でこのプールを彷徨う事も無いのだ。例え幽霊であっても、この世界から存在が消えてしまうことは悲しいが、それでも成仏した方が幸せだと思う。輪廻の輪の中に戻る事ができれば、いつの日か、別の時代で信二に巡り会えるかも知れない。


 パシャンッと音がした。見ると、狐に戻ったイナリがプールに飛び込んだところだった。イナリは宝魂石を取りに行ったのだろう。


 プールに潜ったイナリをそのままに、典晶達は一足先にプールを後にした。


「ありがとう……、本当にありがとう」


 信二は流れる涙を隠すことなく、何度も頭を下げて典晶に礼を言って帰っていった。


 彼も玲奈と同じく救われた一人なのかも知れない。信二が運転する車のテールランプが消えるまで見送っていた典晶は、背後で聞こえた足音に振り返った。


「宝魂石は見つかった?」


 ジャージ姿のイナリは満足そうに頷いた。


「ああ、バッチリだ」


「見た目に変化は……」


 そこまで言って、典晶は気がついた。今、典晶達がいるのは月光によって生じた校舎の陰にいる。月光を浴びていないのに、イナリは狐の姿に戻っていなかった。


「約半日、月光を浴びなくてもこの姿でいられる」


 ニコリと微笑んだイナリだったが、すぐに典晶は別の問題が頭を過ぎった。


「………寝るとこ、どうすんだろ?」


 典晶の呟きに、文也が「は?」と怪訝な表情を浮かべた。

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