十話


 トントントン…………


 どのくらい経っただろうか。重苦しい沈黙を足音が破った。

「典晶、無事だったか!」

 典成が入ってきた。

「親父……」

 不思議だった。普段は頼りにならず、ただウザいだけの父親の存在が、これほどまでに気持ちを安定させてくれるとは思わなかった。典成は腕を広げてきたが、流石にその中に飛び込む勇気は無かった。

「…………さあ!」

 映画でよく見る親子感動の再会を期待しているつもりなのだろうが、典晶は安心はすれどもそんな気分ではなかった。

「典晶……!」

 続いて、入ってきたのは歌蝶だった。彼女は典晶の無事を確認し、すぐに文也、美穂子、そして理亜の状態を確認した。

「万事上手くいったみたいね」

 典成を押し退けるようにして部屋に入ってきた歌蝶は、典晶の頭を撫でながら、少し不機嫌そうな那由多に言った。

「まあ、俺が出るからには、人間の被害者は出したくないので」

「良くやってくれたわ。これで、嫁入りが万事上手く行けば良いんだけど」

 浮かない表情でそういった歌蝶は、典晶の側から離れ、文也の枕元へ立った。

「とりあえず、この子達を親御さんのところに戻さないと、騒ぎになったら大変よ」

 歌蝶は文也の額に人差し指を押し当てた。すると、ハッと文也は目を覚ました。

「あっ……! 鬼は……?」

 布団を弾き飛ばすように起き上がった文也は、辺りを見渡し、ここが八意の家だと知ると、ホッと胸を撫で下ろして布団の上に力なく座り込んだ。

「助かったのか……?」

 横で寝ている美穂子と理亜を見て、ぽつりと呟いた。

「ああ、文也が見て気絶した鬼は、那由多さんが召喚したものだったんだ。あの鬼は、俺たちを助けてくれたんだよ」

「そうだったのか……」

 文也は那由多を見ると、ぺこりと頭を下げた。那由多は手を振って「気にしないで」と、笑顔で答えた。

「所で、イナリちゃんは?」

 イナリの姿が見えないことに疑問を持った文也が、何気ない質問を場に放つ。その質問に、場の空気が変わったことを典晶は敏感に察知した。

「イナリは……」

 そういえば、八意に呼ばれたきり戻ってきていない。典晶は腰を上げようとしたが、歌蝶の声が典晶の動きを制した。

「イナリちゃんは、先ほど帰ったわ」

 一瞬、歌蝶の言っていることが分からなかった。先に家に帰ったのかと思ったが、横に座る思い詰めた典成の表情を見て、『帰った(・・)』の意味が分かった。

「もしかして、イナリは……」

「先ほど、宇迦が迎えに来たわ」

「そんな……」

 典晶は言葉を失った。横に居る典成は、この世の終わりとばかりに沈んだ表情を浮かべていた。典晶が一方的に断ったわけではないが、イナリが帰ってしまった場合も、宇迦の話は適用されるのだろうか。

「もしかして、親父は……」

「まだ分からないが、可能性はないわけではない。先ほど、ここの店先で宇迦さんと会ったけど、かなり怒っていた……」

 典成は唇を何度も舐めた。

「宇迦も、一度言い出したら聞かない子だから、困ったわね」

 いつもの調子で小首を傾げる歌蝶。典晶は、小石を沢山飲み込んだかのように、胃の辺りが重くなるのを感じた。

「イナリは、何か言っていた?」

 掠れる声で典晶は尋ねる。那由多は何かに怒るように目を細めながら、歌蝶を睨むように見つめた。上体を起こした文也だったが、場の空気に堪えられなくなったのだろう、横になり、枕元に座るヴァレフォールを見つめてぎこちない笑みを浮かべた。ハロは意に関せずといった感じで、スマホを見つめている。

「何も言ってなかった。彼女は彼女で、思う所があったんでしょうね」

「典晶、心当たりはあるのか?」

 典成の問いに、典晶は無言で頷いた。

 典晶とイナリの間に生まれた溝。それは、人の命の重さの感じ方だった。基本的な価値観の違い。人間同士なら、誰もが話し合わなくても持っているもの。それが、典晶とイナリの間にはない。典晶とイナリは知り合ってまだ間もない、お互いのことを徐々に知り、問題を解決していく大事な時に、一番大きな問題に直面してしまった。まだ精神的に大人になりきれていない典晶は、割り切ると言うことを知らなかった。それは、イナリも同じだろう。

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